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父方の祖父は97歳になるが未だ健在で、山中の家で独居を続けている。兵隊として中国に行った以外はずっとそこに住み米を作っていた人で、学も財も地位もないが、動物として考えた場合これほど優秀な個体もあまりないような気がする。まず97に見えない。そして何より頑強だ。農作業で鍛えられた身体は筋肉質で足腰に衰えも見られない。大病を患ったこともなければ目や耳も悪くない。頭髪には後退も見られず黒髪の率も高い。戦争や事故で幾度も生死の境を彷徨う経験をしているにもかかわらず、その都度復活しているという事実からして運も相当に強い。これで人格、人当たりにも優れていれば言うことなしだがそうではないのが問題で、つまるところ私はこの人のことを野犬だと思っている。この人の生命力は野犬の生命力である。自分の四分の一がこの野犬に由来しているという事実を私はかねてより興味深く思っている。

端的に言ってこの人は疎まれている。過去の行いが悪かったのだ。もっとも、何がどう悪かったのかは分からない。親たちは「あの爺さんは、ねぇ……」と言葉を濁すだけで詳細は誰も語ろうとしない。ただ、その悪行というものが酒や博打や女など、はっきり名指しできるようなことでないのだけは分かる。なぜならそれらの悪習はある種の文化だからだ。野犬は文化の外にあるからこそ野犬なのであり、この人の行いの悪さというのはそういう次元にない。それはいわば横溢する野性がもたらす社会や文化との齟齬によるものと推測され、だから誰も語ろうとしないというより、語りようがないのかもしれない。

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さすがに百歳近くになってきて、この人の行動にも幼稚園児の一人歩きのような危なっかしさが出てきた。掃除やごみ捨てなど身の回りのことも十分にできなくなっている。しかしその一方で元来の扱いにくさもまた際立ち、訳も分からず周囲に噛みつくことも増えた。見かねて家族が介助や同居を申し出るも頑として拒み、施設に入れられるくらいなら死ぬとも言う(が、身体はピンピンしていて認知にも問題はないのでそもそも介護認定が下りるような状態ではない)。口にこそしないが「じゃあ死んでくれ……」と周囲の人間は皆思っている。そのため、折からのコロナの流行を口実に、最低限の必要以外では誰も山の家には寄り付かなくなっている。

こうなる以前からのことだが、帰省のたびに私はこの人を見に行く。もちろん愛着や義務感などからではない。人に懐くということを知らない野犬にどの辺りまでなら近付けるだろうか、という単純な興味からである。孫娘という縁遠さもあって、この人が私に牙を剥くことはない。その立ち位置を利用してのことだ。

先日帰省した際も、私は山の家を訪れた。誰も近寄らなくなった家の中は、文字通り野犬の棲み処のように荒廃していた。個人的な愛着がないとはいえ、さすがにその光景を前にすると、誰にも避けることのできない老いと死の強大な力を目の当たりにしたようで足が竦んだ。

だがこの時、なぜか祖父の姿は見当たらなかった。その日は恐怖を感ずるほどの土砂降りだったので、恐らく近くに住む弟妹のところにでも行っているのだろうと私は考えた。だが同時にそれは多分違うだろうとも思った。直視したくはなかったが、そのような考えを凌駕する嫌な予感だけがあったからだ。それは田んぼを見に行ったのではないかということであった。台風のときになぜか田んぼや用水路を見に行って亡くなる高齢者、あの「なんでそんな時にそんなとこに行ったかね」と万人が思わずにいられない最期、それこそが祖父の死には一番似つかわしいとかねてから思っていたからだ。

そう考えるとそれ以外にない気がする。だが身の危険を覚えるような雨の中、探しに出るのは不可能だ。そのため、きっと大丈夫、今までもそうやってケロッと修羅場を潜り抜けてきている人だから、と何の根拠もないことを自分に言い聞かせつつ家を離れるしかなかった。

続く

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