一人と六姉妹の話 30
その時、祖父が目を開いた。だがこれは必ずしも覚醒を意味しているのではない。さっきから眺めているが、ときどきあるのだ。一瞬ドキッとするが、その実、魚と同じで眠っている。文明と野蛮の境界が曖昧になっているのと同じで、百に近くもなると、夢と現実を区別することにも意味はなくなってくるのだろう。というよりも、祖父はむしろ積極的に現実を手放し、夢の側に留まりたがっているようにも見える。意識が鮮明な時に居合わせると、祖父は必ずこう訴える。「誰もおらんごとなった」。それはもうどうしようもないほどの真実で、そんなことないよ、などと軽々しく慰めることはできない。一人の世界。しかし歴史と場所にだけは分かちがたく結びついていて、その意味で、私が没頭したい「自分の世界」とは根本的に性質が違う。
正直なところ、私は祖父が少し羨ましくもある。あまりに共通点がなさすぎて、冗談のように聞こえてしまうだろうか。でも本当に、できることなら私も、蚊取り線香の存在意義も、手にしている本の存在意義も分からなくなってしまいたい。そしてあんな風に土地の匂いを嗅ぎながら、昔の思い出に揺蕩いながら、あんな風に寂しいと言ってみたい。寂しいということは少なくとも何かがそこに存在したということの証左だ。私は何にも寂しくない。何もないのが当たり前だからだ。何となくの雰囲気として、漠然とした一般論として、寂しいような気がする、というのは感じる。でも私に分かるのはその程度で、実際のこの風景の中に、ここの時間の中に、私と繋がっているもの、私の知っているもの、そして何より私のことを知っているものなどは、初めから何もない。何もないから、あるかなきかの自分の世界とやらに戻るしかない。
そう、初めからそうだったのだ。言ってしまえばここに来たのも、神戸の人に興味を持ったのも、ただ来てみた、興味を持ってみたというだけのことなのだ。必然性も切実さも何もない。何か淡い期待を抱いていたような気もするが、それが何だったかということももう分からない。それにしてもこんな調子で、何かを本当に分かるとか、理解するとかいうことが私にできるのだろうか。眠っていても何かを見ている祖父のように、私も本当の意味で何かを見るということができるのだろうか。考えるだけ空しくなる。そういう意味での私の能力はもともとか、次第にか、とにかく退化してしまっている。あるのは、今となっては用をなさない感覚器官の名残だけで、何となくこの場所とその人とに引き寄せられたというのも、その無意識の作用に過ぎないような気がする。祖父はまだ目を開けている。あの目で祖父は何を見ているのだろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?