見出し画像

存在しない人 9

もっとも、彼自身がこんなことを考えたわけではない。遠目に発見した時点を最後に、男への関心は完全に失われていたし、最初こそ多少の努力を必要としたものの、時間が経つにつれ、いつの間にか男の存在を本当に何も意識しなくなっていたからだ。彼は何も感じず、何も考えずに過ごした。それはつまり普段通りに過ごしたということだが、自らの内発的な欲求にのみ従う極めて滑らかな彼の生活に一切のざらつきも引っ掛かりも感じさせなかったという点において、言い換えればマイナスがないことこそが最高の価値であるこの船上において、男は意外にも優秀なゼロなのかもしれなかった。

だから彼は、男が「じゃあ――」と言った時も何も思わなかった。
「僕はそろそろ」
男の言葉に反応し、彼は声の主の方を見たが、言葉自体は彼を素通りし、夜風に変わり始めた空気の肌寒さだけが彼の意識を占めていた。そしてその肌の感覚は、今晩は何を食べるかという日々繰り返される課題へとやがて形を変え、彼の眼前に立ちはだかった。貯蔵庫内の食料品の残量、品物ごとの賞味期限などが脳裏に浮かんだ。補充の機会が限られているため、食事に関してはかなり計画的にならざるを得ず、彼はそれらのデータを逐一記憶している。そして無駄を出さぬよう、かと言って単調にもならぬよう細心の注意を払っている。もっとも、食事は彼にとって単なる楽しみではない。自らの肉体と健康以外に頼むところのないこの生活において、何を口にするかということは極めて切実な問題である。だから、沈みかけた真っ赤な夕日を浴びながら男がチェアを畳もうとしたのを手で制したのも、やる必要はないと伝えるためというより、思考の邪魔をしないでくれという意味に過ぎなかった。

男はそれを汲んだのか、チェアをそのままにして軽く頭を下げた。そしてふっと消えるように身を引くと、デッキの先端に立った。彼の服を着た背中が彼の視界に映った。そして次の瞬間、男は美しい姿勢で海へ飛び込んだ。

彼がそれに興味を惹かれたのはなぜだろうか。いきなり船に上がり込んできた人間が再び海に戻るなどという状況はそう度々あるものではないから、他の場合ならどうだったかということは知りようもない。だが、その飛び込みがあまりに綺麗だったことは事実だ。オリンピックの競技をだらだら見続けていても、ここまで正確な、まさに針に糸を通すような飛び込みにはめったにお目にかかれるものではないだろう。男は飛沫も上げず、音さえ立てずに水の中へ吸い込まれた。一体どうなっているのか、もしかするとスクリューに巻き込まれたのではないかとさえ彼は思った。それでデッキから下を覗いたが、遠くで男が水を掻く音が聞こえたので、彼は再び自分の世界に戻った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?