ヤモリ 46
直子は仕事に打ち込んだ。それが実を結ぶのに時間はかからず、彼女の地位と貯金額はひとりでに上昇していった。出産を経験しない彼女の体形はいくつになっても加齢の影響を受けなかった。表情筋は未発達のままで顔には皺ひとつなかったし、化粧もせず研究室にこもっているだけなので肌にはシミひとつなかった。あれだけ醜いと思っていた自身の特徴も、年齢を重ねるうちにいつの間にか美醜の基準を超越していた。また、彼女は自分のルーティンだけに忠実だったから、睡眠や食事や運動など、生命の維持に必要な活動に関しては極めて規則正しく遂行し、度を越えて無理をすることや、付き合いで不摂生をすることなど決してなかった。そのため悩みもなくストレスもなく不調の一つも感じたことはなかった。
だがそんなことも彼女にとっては何の意味もないことだった。考えないように努めるまでもなく、彼女は何も考えなくなった。欲とは無縁で、卑屈さも遠い過去のものだった。悲嘆にせよ歓喜にせよ、ドラマは何も起きなかった。夜が来たらまた朝が来るというその繰り返しの中を、彼女の前には道が伸びていた。それはくねってもおらず起伏もなく、途切れてもおらず障害物もない、立派に舗装されたまっすぐな道だった。
人生は簡単なものだった。むしろどうしたらこれを踏み外すというのか、彼女には分からなかった。何も思わなければいいだけなのに。何も見なければいいだけなのに。この道のルールに従えばいいだけなのに。それに従ってさえいればどこまでも続いていくのに。
彼女は相応の名誉を手にしながらその職を全うし、そのタイミングで長年住んでいたささやかなワンルームマンションを引き払うと、年齢的には少し早いが高級老人ホームに入居した。手付かずの資産をそっくり使い切るつもりの選択だったので、その環境は抜群で、何にも煩わされることなく、これまでと同じように自分の研究に打ち込むことができた。仕事の枠に囚われず、何でも好きなことをやっていいとなると、中学時代に戻ったかのように数学に関心が向くのは自分でも興味深いことだった(値の張る一級品を与えてくれた亡き両親には感謝しかない。シャーペンは直し直し使いながらも現役だった)。
いくつになっても、医者が驚くほど直子の身体機能に衰えは見られなかった。また認知機能にも全く変化はなかった。直子は自室で日がな一日、介護士に用意してもらった紙に数字を書き連ね、几帳面な筆跡で余白をぎっしりと埋め尽くした。そしてふとその手が止まる時、枝葉のない棒のようなこの人生にいつか終わりが来ても、それが終わりと誰か気付いてくれるのだろうか、と思うのだった。【終】
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