一人と六姉妹の話 29
昼下がり。池の傍らの温かな陽だまりに置いた折り畳み式リクライニングチェアの上で、相変わらず祖父は寝ている。今はそこにあるが、気に留めるたびに椅子の位置が変わっているので、広い敷地の中でより居心地の良い場所を求めて転々としながら、熟睡はしていないのだろう。まるで猫だ(だからあんなに猫を嫌うのだろう。同族嫌悪)。戦争中に大陸で死ぬ目に遭っているから、祖父にとって大抵の不快は不快ではない。蛇や蛙はいざとなれば食すことのできるものに過ぎず、虫に刺されることを気にしたことなどあるかどうか(外で一晩寝るのさえ平気なのだから当然のことだが、祖父は網戸の必要性を理解していない。家の中にいても暑ければシンプルに開けっぱなしのフリーパスだ。祖母が去った後、荒れるに任せていた間に家中の網戸という網戸は外れたり破れたりしてしまっていたので、私が東畑で過ごすことに決めたとき、最初にやったのはこの網戸張りの作業であった)。ともあれ、これができるようになれば怖いものはない。自然と一体となった優雅な生活! ソロキャンプだ何だと言うが、その究極の形がこれだ。そこまでやれる人が、と言うか、本当にそこまでやりたい人がどのくらいいるかは知らないが。
蚊取り線香を両脇で焚きながら、私は本を持って縁側に座っている。祖父が時々呻いたり寝返りを打ったりするたびに視線を上げる。煙が目に染みる。
私の想像ではもうこれ以上どうにもならない。どうにもならないというか、どうにもしたくない。きっといくらでも更なる想像の余地はあるだろう。面白い話に仕立て上げる余地はあるだろう。いかにもありそうだ。こんなに綻びばかりを残した人の一生が平凡だったわけはない。田舎にいたのでは絶対に出会わなかったような人と出会っていたり、とんでもない場所で夜明けを待ったりしたかもしれない。でも何だろうか、そういうことをひとたび思い浮かべようとするたびにどうにもこうにも無理なものを動かそうとしているような感じがしてくる。そしてその無理の重さを和らげるために、どうしても手を伸ばしたくなるのだ――作為に。
食べるつもりでテーブルにまで並べながら、やっぱり食べる気がしない。きっとこれが私の駄目なところなのだろう。それ以上近付きたくない。材料にしたくない。怠惰というべきだろうか。根本的なところで関わりたくない、知りたくない。そうすればするほどその人自身が遠くなってゆく、見えるところだけを拡大した歪な姿になってしまうという理由で。言い訳か? まあ言い訳だ。
そして実際に、興味も薄れつつあった。だから祖父に改めてその人のことを聞き出そうと思ったのも、その人の話に何か新たな情報を追加したいとか、その情報をもって結局こういうことだったのね、という何らかの結論を出したいということではなく、これ以上何を聞いても無駄だという確信を得て、集中を妨げる余計な要素を片付け、再び自分の世界に没頭したいというただそれだけの理由からだった。
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