一人と六姉妹の話 1
数年前の話である。実家に突然、神戸の行政書士と名乗る人物から連絡が入った。その人物の話によると、父が相続権を持つ土地と空き家が神戸の一等地の中にあり、その場所に家を建てたい人(音楽家か何かだと言っていた)が買取りを強く希望しているのだという。だが神戸に親戚はない。思い当たることが何もない。当然のことながら、父はその話を詐欺だと思ったらしい。しかし相手も食い下がる。そして向こうが持っている親族関係についての情報もあながち間違ってはいない。そこでよくよく話を聞いてみると、それは父の伯母、つまり父の亡母(私の祖母)の姉のものだということが分かってきた。
爺さんも六人全員うまいこと片付けたものだ、と私の親たちはその「システム」をよく笑い話にしていた。確かにその手腕はどこかベテランの進路指導の教師を思わせる。実際そうやって振り分けた娘たちは皆そこここで根付き、子供も生まれ、それに連なる私を含めた孫たちも大勢生まれたわけだから、試みは成功したと言えるだろう。またその一方で、閉鎖的な田舎の、味方の誰一人いない大家族に嫁いだ嫁の立場というものが並大抵でなかったことも容易に想像できる。愚痴を吐くにも電話はない、生家に戻るにも徒歩で山越えして丸一日かかる。だからそれは、逃げ場のない生活に収まるための現実的な方策でもあり、また精一杯の親心でもあったのだろう。
祖母は六人姉妹の末っ子、ということになっていた。名は須美江と言った。ひらがな名の私は子供の頃、三つも漢字の入った祖母の名前にはさぞやいろんな思いが込められているのだろうと思っていたが、大人になって気付いたら何のことはない、何人も何人も女ばっかりもう要らん! 済! という意味でのスミエさんである。彼女は福岡の甘木という農村の出で、小学校を出たほかはおそらく特段の教育も受けていない。生家が裕福でなかったことに疑いの余地はないのだが、かと言って特別貧しかったかというとそこまでの話も聞いたことはなく、当時の田舎の百姓家の子沢山の女の子(のしかも末っ子)の成育歴としてはごく標準的なものだったのだろう。おそらく上の姉さんたちにしてもそれは同様で、先祖代々の生活を諾々と続けてきたその親が娘たちの将来のためにしてやったことと言えば、嫁ぎ先で辛いことがあっても姉妹で支え合っていけるようにと、一つの集落に二人の娘を嫁がせるという配慮くらいのものであった。生家はいわゆる中山間地域にあったが、どういう繋がりがあったのか、姉妹の父は山間に点在する、似たような小さな三つの集落の中からそれぞれ娘たちの嫁ぎ先を見つけ、各二人を「配属」した。子供の頃はその関係性がよく分からなかったが、私も祖母が近所の本家に嫁いだ長姉のところへよく行っていたのを覚えている。
だが、2×3=6というこの完璧なシステムに「余り」が存在したというのである。生前の祖母が自分の子供たちにさえただの一度も言及することがなかったその「余り」、それが神戸で亡くなったその人だった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?