ヤモリ 39

だが有馬はそんな直子の表情を見ていなかった。というより、何も見ていなかった。何も考えていなかったし、出まかせにぺちゃくちゃ喋りながら、誰と喋っているかということにさえ気を留めなかった。その振る舞いに他意はなく、要するに有馬はいつもの有馬に戻っていた。有馬は直子との間にあったことや、部屋に入ったことを敢えて話題にしようとも思わなかった。もちろん忘れたわけではなく、考えないようにしているわけでもない。しかし理屈ではなく動物的な直観から、あの時の自分が陥ったのは現実の裂け目のようなものであって、そういうことはあまり深追いしないほうがいいような気がしていた。だから有馬は直子にはもう興味もなかったし、橋高に入れるかどうかということもどうでもよかったし、本当の自分がどうだということについても、そんなことを真剣に考えていた自分が信じられないという気がした。

直子の意識はだんだんと遠のいていった。痛みというよりぼんやりとした感覚で、まるで水槽の中から外の世界を眺めているようだった。夏の間囚われていた夢の中の断片的な残像が、揺れてはいるが一応の現実として目の前にあった。よく分からないが声も聞こえた。触ろうと思えば触れるのだろうか、と直子は思った。そうしてみたい気もしたが、手を伸ばしても届かないことは分かっていたし、向こうが何を言っているのか分からないのと同じように、自分の言うことも伝わらないのは分かっていたから、ふわふわしながらただそう思っているだけだった。これが精一杯なんだろうな、と直子は思った。私が近付けるのはここまでで、これ以上はどうなりようもない。だから多分これが限界なんだろう。そしてどうせここで行き止まりなんだったら、先にあるもののことなど考えないほうがいい。最初から手の届かない世界なんだからと身を引くほうがいい。だけど……

しかし直子がそんなことを思っていたのは、実際にはほんの一瞬のことに過ぎなかった。

「うわ、何これめっちゃかっこいい」

そう言って有馬が転がっているシャーペンに手を伸ばそうとした瞬間、バリンと音を立てるがごとく水槽は割れ、直子は叫んだ。

「だから触るなって言ってるでしょ!!」

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