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プラットホーム(003)『悔い改めの恵み』

 僕たちは、日々罪と戦います。神様への感謝のない日はありませんが、罪のない日もありません。僕らが、聖くなっていけば、罪は犯さなくなります。また、罪の思いがよぎっても、それを、愛や感謝で覆って、消し去ることができるなら幸いであります。 

 しかし、抱いてしまった罪の思いをどうしても消せず、抱えて、握ってしまったり、行いにしてしまうことは多々あります。その時僕らはどう戦えば良いのでしょうか? 

 まずは、「罪の思いを抱えて握ってしまった場合」です。罪の思いを告白せずに抱え込んでしまうと、自分の内側で猛毒に育ってしまうことがあります。抱え込みすぎて苦しんだ末に、それが表に出てしまうと、時として他人の心を殺しかねません。ですから、罪の思いを抱えて、握ってしまったら、猛毒になる前にできるだけ早く告白することです。イエス様に告白する、牧師に告白する、もしくは兄弟姉妹に告白するのです。 

 そして「告白によって罪を表に出した場合」また「罪を行いにしてしまった場合」です。絶対にしてはいけないのは、罪を犯してしまったことで、『自己卑下』『自己憐憫』に陥ることです。「反省」といいながら、「私はだめな人間だ」と『自分を裁く』ことです。

 自己卑下、自己憐憫、自分を裁く行為は、傲慢な行為なのです。自分であろうが他人であろうが、僕ら一人一人は神様が愛した存在です。それを裁く権利は人間にはありません。人間を裁けるのは神様だけです。自分を裁く行為は、神様にとって代わる行為なのです。これは傲慢です。イエス・キリストを裏切り、銀貨30枚で売ったイスカリオテのユダがこうでした。結果は、聖書に記録してあるとおりです。 

 僕らが、しなければならないのは「悔い改め」です。これぞ、唯一、僕らが罪と戦い勝利する手段なのです。「どうか許してください。」「私は二度と罪を犯したくありません。どうか助けてください。」自分を愛してくださった神様の顔に泥を塗ったことを、心から詫びて、神様にすがるのです。イエス・キリストのことを三度「知らない」と否んだシモン・ペテロがこうでした。結果は、聖書に記録してあるとおりです。 

 信じる、信じないに関わらず、この世界は終わりの時を迎えています。聖書の預言の中で、現実となっていないのは、イエス・キリストの再臨と終末です。それが、いつやってくるのかは、父なる神様しか知りません。でも必ずきます。この世界は終わり、そして、新しい天と地が現れます。人類はそこから次の段階に入ります。 

 世界が終っても、それで終わりではないように、人間も死んで終わりではありません。肉体が死んだあと、新しい体とともに永遠が始まります。天国で永遠に生きるのか、地獄で永遠に生きるのか。二つに一つであります。僕は、罪のない、聖い状態で、イエス様の再臨をお迎えしたいといつも思っています。すなわち、罪に勝利しきった状態で、イエス様の再臨をお迎えしたいと思っているのです。罪に負けたまま、聖くないままでは、天国には入れません。 

 罪の性質をアダムから引き継いでしまっている僕らのために、2000年前にイエス・キリストが来てくださいました。そして、その死によって僕らの罪は贖われました。そしてイエス・キリストを信じる者は、「正しい者」とされました。そして「正しい者」が罪を犯してしまったなら、「悔い改め」によって、聖められるという恵みが、僕らには与えられています。

 クリスチャンであろうと、クリスチャンでなかろうと、人間は罪を犯します。罪を罪として認識するか、罪に鈍感に生きるか、この差はけっして小さくありません。日々、謙遜に、罪に敏感となり、まことの悔い改めのできる者でありましょう。

 そして、今この瞬間何をしていようと、この真理を知って、「悔い改めて」、愛する者たちと天国に入りましょう!

 『イエス・キリストを信じて一緒に天国に行きましょう。』

(了)

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