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プラットホーム(001)『天国行きチケット』

 イエス・キリストが2000年前に、十字架で死なれたことで、私たちは先祖であるアダムによってもたらされた「罪の呪い」から、救われる権利を得ました。すなわち、天国行きの電車(船でも飛行機でもいいのですが(笑))のチケットを手にいれたわけです。

 問題は、手の中にある天国行きのチケットに気がつくかどうかです。手にしていることに気がついたチケットが、果たして天国行きのチケットかどうか信じるかどうかです。信じて電車に乗るかどうかです。乗ったならば権利を形とすることが出来ます。

 幸い僕は気がつくことができました。気づいて、僕は信じました。そして、その電車(船、飛行機)を『真理号』と名づけ、乗りこみました。

 『真理号』の中は平安です。確かに、うとうとして、『真理号』に乗っていることを忘れかけて不安になったり、終点で待つ景色よりも、今見える車外の景色の方が美しく感じて、プラットホームに降りたら、そのまま改札をくぐってチケットを手放して、途中下車させられそうな誘惑もたくさん受けたりしますが、決して改札から出ることなく、チケットも手放さず、今も乗り続けています。

 僕たちには『自由意志』が与えられています。何をもって真理とするかも自由です。でも『真理』は一つです。『真理』」が存在するのなら『真理』は一つです。ですから、それを「信じる」「信じない」という人間の自由意志とは関係なく、すべての人に『真理』は『真理』です。

 僕の意志が求め、信じたのは、イエス・キリストという『真理』です。どうして信じ続けているのか?それは、もしイエス・キリストが真理だとするならば、聖書のみことばを信じることで天国に行き、天国で永遠に生きることが出来るからです。もし聖書のみことばを信じないならば、恐ろしい地獄で永遠に苦しんで生きなければならないからです。逆に、もしイエス・キリストが真理でなかったとしても、聖書のみことばを信じて生きても、人生でリスクを負うことは何一つないからです。ならば、信じる方が賢明だと考えるからです。

 僕は、いわゆる『宗教』というものは良く知りません。しかし、救いを求めて、様々な『宗教』を渡ってきた人の話を聞くと、「こうしないと天国にはいけないから」といろんなことを『強制』されたり、難行苦行を言われたり、「結局は金かい」と言わねばならないようなものばかりだった、と言います。その人の言うことが全てとは思いませんが、少なくとも、僕がいる教会では、何かを『強制』されたり、ましてや『お金を要求』されたことなどは、ただの一度もありません。

 僕は教会では「『救い』は何かをするから与えられるのではない。それこそ善い行いをたくさんするから天国へ行けるのではない。『救い』『天国』は神様の一方的な『恵み』『愛』によるのだ。「信じることで『義』とされて、それを告白しさえすればよいのだ。」と教えられただけです。

 そんなありがたいことなら、先に『究極のもの』をいただいているのなら、信じたくもなります。信じて『神様の一方的な愛』を知ったとき、自分の罪が分り、その罪を悔い改めるようになります。そして、聖書のみことばに従いたくなります。そうです、『信じなきゃいけない、悔い改めなきゃいけない、従わなきゃいけない』ではなく『信じたい、罪を悔い改めたい、従いたい』となるのです。従いたくなるって、具体的には一体なにをするの?というと、「見返りを求めず愛する」これだけです。2000年前に、そうしてもらったから、自分もそうしたくなるのです。「神様を愛して、人々を愛する」。額に汗して、歯を食いしばる努力などいりません。信じて、「決心」さえすればそうする「力」をも与えられます。自由意志は「決心」するためにあります。

 だから僕は、願います。僕が今まで出会ってきた人々が、手にしている天国行きのチケットに早く気がついて欲しいと願います。そして、手にしたチケットを、天国行きのチケットだと信じて電車に乗ることを願います。握っているチケットに気づかないまま手放してしまわないことを願います。もし、チケットが偽物で、終点ですべてが終了、無になるとしても、『真理号』に乗る人生は美しい豊かな人生だと思います。

僕は電車が駅で止まる度に、プラットホームで皆さんに乗車を呼びかけます。「イエス・キリストを信じて一緒に天国に行きましょう!」

(了)

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