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Message(009)『愛は意志』

クリスチャンになりたての頃(洗礼を受けたばかりの頃)、「『愛』は感情ではなく意志だ」と聞きました。

当時は全く理解できず、『愛する』というのは、最も強い、強烈な「感情」であると思っていました。ですから、僕はこの言葉は、ほとんどスルーさせていましたし、結婚もこの感情と感情の結びつきだから、感情がなくなってしまったら離婚も仕方ない、と考えていました。

今、思いますと、この時の僕は本当に「愚か」、といいますか、「幼い」、といいますか、『愛』と『結婚』の意味を、ちゃんと分かっていなかったのだなあ、と思います。

「一時も離れたくない!一緒にいたい!だって愛しているから。」こういう時の「愛してる」 は、まさに感情だけで発する言葉ですね。だから、もし、相手がこの感情に応えることができなかったら、「こんなに愛しているのに、どうして一緒にいてくれないの?あなたは、私を愛してないの?」という言葉が出てきてしまいます。

「こんなに愛しているのに」「こんなに思っているのに」は、男女の間の感情だけでなく、友情、親子の間の情でも、出てくる言葉かもしれませんね。

要するに、見返りを求める愛なのです。

この感情を舵取りにして結婚したりすると、 後々大変なことになりかねません。お互いの感情がうまい具合にかみ合っていれば、本当に幸せな思いを抱きつつ、順風満帆に結婚!ということになりましょう。しかし、二人の生活が始まる、子供が生まれる、などして、様々な出来事の中で、お互いの感情の度合いがずれてくると、不平不満がでてきます。自分の思い通りの生活でなくなってくるからです。

「こんなはずじゃなかったのに!」

何かを得ようと思って結婚して、その何かを得られなくなったとき、結婚に不平、不満、時として後悔の念が出てきてしまうのです。

けっこう、このような夫婦は多いのではないでしょうか。かつて、僕もそれに近い思いを抱いたことがありました。「こんなはずじゃなかったのに…」「もう一緒にいられないかもしれない…」

では、そんな僕は今どうなってるの?というと…、実は妻と出会って以来、夫婦として最高に幸せな日々を送っています。どうして、そんな風になれたのでしょうか。

それは、僕が、『愛』と『結婚』の本当の意味を知って、変わることができたからです。

『愛』は求めるものではありません。与えるものであります。相手がどうあろうと、自分を捧げようと決心することなのです。僕はその愛を、イエス・キリストとの人格的出会いの中で知りました。僕が間違いなく、神様から愛されているということを感じた時に、僕はなんと我儘な、自分本位の感情にとらわれて生きているのだろう、と思い知らされました。

『結婚』は、僕たちの創造主である神様が、人間にとって「良し」としたスタイルであります。
「人がひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手をつくろう。(創世記2章18節)」 
とし、男性に女性が与えられました。社会の最小単位として、夫婦という形を定められたわけです。
「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。(創世記 2章24節)」 と、神様は言います。ですから、神様は結婚を喜ばれるのです。喜ばれるからこそ、神様は
「こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。(マルコの福音書10章9節)」 と言い、離婚を喜ばれないのです。

僕は、僕を命を懸けて愛してくださったイエス・キリストの愛に応えたいと思いました。僕は、妻を「愛そう」と決心しました。イエス様から頂いた神様の愛を、妻に流したいと思いました。そして、神様に祈りました。毎日「妻を愛することができますように」と祈りました。そうしたら、妻に対する慈しみが湧き上がって来たのです。

つまり、意志に感情がついてきたのです。

求める者から、与える者に自分を変えた時、相手も変わり始めました。足並みがそろっていなかった、夫婦の信仰の歩みが足並みが揃うようになってきました。ある青年が、僕ら夫婦を見て、「自分の親を見る限り、夫婦の愛なんて信じられなかった。でも二人を見ていると夫婦の愛を信じられるような気がします。」と言っていただけるようにもなりました。

現状を誰かのせいにする。問題を解決するために、周りの人間を自分のために変えようとする。それだと解決の糸口はなかなか見つかりません。自分を変えることです。しかし、自分で自分を変えるのは、正直大変です。感情を変えるのは、本当にしんどいことです。ですから、僕は神様にすがりました。自分でなんとか出来ないなんて弱いなあ、と言われるかもしれません。ですが、神様の真の愛に触れた時、確実に人は変わることができます。「愛されたい人」から 「愛する(愛している)人」に、変わることができるのです。感情さえコントロールすることができるのです。

今、確信をもって言えます。神の愛を知ったとき、愛は感情ではなく意志だと「心」が理解します!人は変わることができます!

(了)

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