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「猿楽から能楽大成への過程について」(二年前期:日本音楽史)

1. はじめに
 日本の伝統的歌舞劇として、文楽や歌舞伎とともに挙げられるのが、能楽である。
 能楽は、「シテ」と呼ばれる主役が能面を用いて、「能舞台」という専門の舞台に立ち、四種の楽器(能管、小鼓、大鼓、太鼓)からなる囃子手とかけ合いながら、物語を演じる。能は、「散楽」という大衆芸能に古い祖先を持ち、のちにこの散楽が演劇性や音楽性を伴って「猿楽」となり、これを観阿弥・世阿弥が能として大成させたという。
 そこで、本レポートでは、平安時代から室町時代にかけての猿楽の変容過程に注目し、いかに猿楽が能楽へと大成したかを論じることとする。
 2では、猿楽の大元と言われている散楽の概要について簡単に記す。次に、3は平安時代、4は鎌倉時代、5は足利義満(室町)時代と、それぞれの時代の猿楽の特徴と時代背景について述べる。最後に、6では全体の結論を簡潔に述べ、このレポートを締めくくる。

2. 散楽の概要
(1)散楽の特徴
 散楽は、シルクロードから中国を経て八世紀頃に渡来してきた芸能である。その特徴は、百戯と呼ばれるほどの数の芸にある。
 服部幸雄『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』によると、散楽は三つのタイプに大別できる(服部 2009:114)。一つ目は「曲伎(アクロバット)」で、鈴や刀剣等を用いた芸である。次に二つ目は「幻術(マジック)」。これは、巨像が穴を通るなどの幻術である。三つ目は「滑稽芸(お笑い)」である。このうち曲伎と幻術は衰退し、滑稽芸のみが残り、それが散楽の代表芸となっていったという。
 その他、人形を用いた「傀儡子」や、「俳優」と言われる無言の物真似劇と推測される演目もあり、これらが関係しあい、猿楽の滑稽劇的側面を作ったとも考えられる(木下 1999:21)。

(2)時代背景
 前述した通り、散楽は、シルクロードから中国を経て八世紀頃に渡来した。
 奈良時代初期までには唐代の散楽が日本に伝来した。唐代の制度について記した『唐会要』では、散楽の内容の規定の記述がある。遅くとも、応和三年(963年)成立の『散楽策問』によれば、平安初期には伝来していたとされる。朝廷では大宝元年(701年)に、雅楽寮の中に散楽戸を設け、役人に散楽を習得させた(樹下 1999:21)。
 古代中国では、雅楽などの宮廷芸能に対し、俗楽や雑芸を指して「散楽」と呼称していたことが知られている。そして、大和の朝廷でも、「公的で儀式的な雅楽に対」する儀礼の余興として散楽が演じられた(守屋 1985:151)。
 散楽は、大宝元年から朝廷からの保護と統制を受けていたとされるが、延歴元年(782年)に散楽戸が廃止となり、散楽に従事する芸能者は民間に流出し、市井の芸人として活動することとなる。こうして、散楽は民間で行われていた諸芸能と交わり、猿楽などを創り出すきっかけとなった。

3. 平安時代の猿楽−『新猿楽記』を中心に−
(1)平安時代の猿楽の特徴
 十一世紀初頭の『枕草子』『源氏物語』には、猿楽の呼び名の元である「さるがうごと」(滑稽な言葉や仕草)や「さるがうがまし」(滑稽な様子)などの用例が見られる。このため、十世紀にはすでに滑稽芸主体の散楽が「猿楽」と呼ばれていたのではないかと推測される(服部 2009:115)。
 平安時代の猿楽の特徴を知るのに、大変重要な資料がある。それが十一世紀中頃に記された、藤原明衡による『新猿楽記』である。『新猿楽記』は、とある一家の猿楽見物という設定で、京都の稲荷祭で行われた数々の芸能の詳細を記した書き物である。
 この記事には、当時「猿楽」として行われた雑多な芸が複数挙げられている。ここでの「猿楽」を大別するならば、「呪師・侏儒舞・田楽・傀儡子」等の芸を含んだ散楽的芸能としての総称と、「福広聖が袈裟求め」など滑稽な物真似芸を指す狭義の二種類と言える(服部 2009:115)。
 特に、この滑稽芸としての猿楽は、対句形式の面白おかしい題目による物真似芸が多く見られた。
 例えば「福広聖が袈裟求め、妙高の尼が襁褓乞い」は、当時の宗教者たちが哀れに物乞いしている様を演じたものと思われる。また、同じく藤原明衡『雲州消息』では、稲荷祭に言及した二通の書状の文例に猿楽についての記述があり、非常にエロテイックな演目で都の人々を大笑いさせていたことが書かれている(守屋 1985:154-155)。
 『新猿楽記』における滑稽芸としての猿楽には、鎌倉時代の猿楽にいたる要素がすでに垣間見える。能楽研究者の樹下文隆によると、当時の猿楽には、「物まねのおかしさ、設定のおもしろさ、表現の巧みさ(秀句)」の三つの要素があったようだ。しかし、まだ場面転換や心情描写などの劇的展開は備わっていなかった(樹下 1999:22-23)。
 一方、散楽的な猿楽としては、修正会・修二会の呪術的方面を司る「呪師」に注目したい。
 「呪師」とは、「走り」と呼ばれる軽快な歌舞を基本とした芸能である。その元は、寺院の修正会・修二会において密教的行法を担当した法呪師に求められる。この法呪師の行法が、魔性を祓い、吉を招くものとして芸能化し、それを専業にする「呪師」が誕生したという(阪口 1999:21)。この「呪師」が、後の猿楽の寺社との関係を形作った。
 以上の事柄から、平安時代中期の猿楽は、すでに劇性につながる滑稽物真似を表看板としいた。一方、散楽的側面としての猿楽は、「呪師」のような呪術的側面をも持ち合わせた演目が存在し、以後の寺社行事に関わる入り口を作った。
 そして、平安末期からは、物真似芸などにおいて型を固定化する傾向がしだいに強くなってきた。また、能の基本的要素である舞・歌・囃子の三つの要素が整えられてくる。平安末期の猿楽には、田楽からの影響が強く見られ、そこから音楽的要素を多く取り込んだとされている(森末 1971:74-75)。

(2)時代背景
 平安時代は、貴族たちが世を支配する時代であった。『宇津保物語』などでは、藤原氏の役人が猿楽上手として、酒宴の席で亀の舞を舞って人々を笑わせた記述がある。中世芸能研究者の後藤俶は、「こういう滑稽な寸劇的な舞や面白い言葉を使って人を笑わせることが、酒宴の席などで、朝野にわたって行われていた」と述べている(後藤 1964:100)。ちょうど貴族社会の華やかさに、宴の芸能としての散楽的側面が噛み合ったと推測できる。
 一方、『新猿楽記』の猿楽興行は架空の催しであるが、十一世紀後半には大規模な猿楽興行が可能だったことが推測できる。このような興行は寺社の法会や祭礼に付属して行われたと思われる。
 また、『新猿楽記』には、専業猿楽芸能者が登場することから、十一世紀後半には興行のための役者集団が発生するようになったのではないかと思われる。平安時代末期の十二世紀中頃には、「座」と呼ばれる職業集団が形成され、猿楽役者は特定の寺社と結びつきながら「翁猿楽」を中心として集団化していった(樹下 1999:23-24)。
 そして、猿楽の興行のような場では、猿楽以外の芸能も共に活動していたとされる。そのため、京都の稲荷祭のような場は、猿楽と他の芸能が交流する機会となったことが指摘されている。

4. 鎌倉時代の猿楽−武家社会と猿楽座の形成−
(1)鎌倉時代の猿楽の特徴
 鎌倉時代の猿楽は、観阿弥・世阿弥による現在の能の大成を待つ期間の芸能なだけに、その実態が明確ではない。しかし、後述する寺社の儀礼や勧進興行の場を通して、滑稽芸としての猿楽とさまざまな芸能が影響し合ったと思われる。そのため、現在の能に見られるような音楽的要素や、言葉を交わし合うような劇的要素は、鎌倉時代における猿楽と数々の芸能の交流の中で育まれていった。
 特に鎌倉時代の猿楽において、重要な軸となった芸能が「翁猿楽」と「延年」であると考えられる。猿楽と共に発展を同じくした田楽や、舞踊的側面に影響を与えたと思われる乱舞など、他の芸能の影響は挙げきれないが、本項目ではこの二つの芸能に注目する。
 まず、翁猿楽とは、前述した「呪師」が発展し、十三世紀にその形が整えられたとされる芸能である。最古の記録である『弘安六年春日臨時祭記』には、「児・翁面・三番猿楽・冠者・父允」の五つの役の記載がある。五役は、それぞれ祈祷性の強い歌舞を演じ、冠者と父允の演目などでは二役が組んで問答を行う内容だったとされる。加えて翁舞などでは、翁の面を被って歌舞を演じたことから、現在の能面を用いた劇への繋がりも指摘されている(後藤 1964:130-132)。
 また、後の世阿弥による『申楽談義』で、「申楽の舞とは、いづれを取り立てて申すべきならば、この道の根本なるがゆへに、翁の舞を申すべきか。また謡の根本を申さば、翁の神楽歌を申すべきか」とあり、翁猿楽は現在の翁舞と能につながる直接のルーツであると考えられる。(服部 2009:118)
 次に、「延年」である。これは寺院の法会で僧侶が余興に演じた芸能で、平安から鎌倉時代初期までは白拍子舞や猿楽等、鎌倉中期ごろからは風流・連事という劇的形態をとる芸能として演じられた。後者は、前者の猿楽等を模倣した芸能だと考えられ、滑稽な即興性が減じ、物語性が増大したものだという。室町期の延年の台本が、天文年間の多武峯延年資料から見つかっていることから、鎌倉期は延年が固定化した物語や演技に沿った芸能への過渡期であったと思われる(樹下 1999:25-27)。
 以上のことから、滑稽芸としての猿楽を軸に、呪的芸能の発展形態の「翁猿楽」、舞などに加え劇的形態を備えた「延年」などの種々の芸能が複雑に影響し合い、室町期の能大成への土壌を育てたと考えられる。

(2)時代背景
 鎌倉時代は、前代の貴族社会をうけて、平安時代に社会の表へ進出した豪族が母体となった武家政治の社会であった。
 国史学研究者の森末義彰は、能を成立させた社会的基盤として、一つ目に「田楽や猿楽を職業とするものの発生とかれらの座の結成」、二つ目に「武家社会との結合」を挙げている(森末 1971:77)。
 まず、森末の言う「田楽や猿楽を職業とするものの発生とかれらの座の結成」について述べる。「座」とは、中世のある特定の技術を持った職業者による集団のことである。前述した通り、平安末期に、職業的芸能者と彼らによる座の形成が盛んに起こったことがわかっている。しかし、平安末期の猿楽座は、主に寺社との密接な関係が認められたが、ある寺社を本所としての公的なつながりを持つまでには至っていなかった。
 そこで、鎌倉時代になると、ある猿楽座が専業芸団として芸能を奉納し、その報酬として寺社が米麦を給与する契約関係が中心となる。また、座を組むという行為そのものが、ある地域の独占権を得るための戦略であったために、各地に芸能の座が数多く存立していった。猿楽座は、修正会・修二会の追儺儀礼や、勧進興行(諸国を渡る山伏などが寺社の建物や橋の造営修復のために寄付を募る行為)におけるパフォーマンスを担当し、寺社儀礼と密接に関わりながら技術を磨いていった。
 そして、二つ目の「武家社会の結合」について述べる。
 鎌倉時代においては、鎌倉幕府が、地方の権力者である有力名主を統合し、「御家人」という封建制度を採用して国を支配していた。だが、当時の全国では、幕府直属の土地と、「荘園」と呼ばれる幕府管轄外の土地が複雑に入り乱れていた。そこで、幕府は、地頭という役人による荘園侵略を図った。
 地頭などを含めた名主たちは、ある地域の支配権力者であり、そのため支配地域の自社とも密接な関わりがあった。しかも、地方の寺社の仏神事の芸能は、たいてい名主や地頭たちによって主催され、主な観客層も彼らが想定された(森末 1971:81-84)。
 そのため、上級武士階級たちの文化教養の一つとして、猿楽が存在していたのではないかと考えられる。また、もう一つ重要なことには、支配階級から庇護を受ける形での、室町時代につながる猿楽の上演形態が見出せる点がある。
 これらのことから、鎌倉時代は、職業的芸能者の集まりである猿楽座が、地方の寺社儀礼の一部を担当し、各地で活発に興行を行なった。そして、猿楽座は、寺社儀礼の一部を担当することを通して、上層階級の武家たちと関係しあっていたと考えられるのだ。

5. 足利義満時代の猿楽−猿楽から能へ向かって−
(1)足利義満時代の猿楽の特徴
 能楽の大成は、室町時代であるとよく言われる。しかし、能楽の語は近代以後に定着したとされ、室町時代においても、「猿楽」または「申楽」と呼ばれる芸能であったことには注意したい。
 室町時代の猿楽は、観阿弥・世阿弥の登場によって、劇的要素、音楽的要素を伴った急速な発展を遂げ、高度に芸術化した。
 観阿弥は、メロディー主体の能の謡に曲舞を導入することで音曲上の改革を行い、歌舞と劇生を融和苦させた名曲を残した。その後、世阿弥は父である観阿弥のあとを引き継ぎ、「複式夢幻能」という戯曲形式を完成させ、優れた作品を多く作り出した。また、世阿弥は、『風姿花伝』などをはじめとする芸術論を記し、芸術的発展に向けた猿楽(能)の理論化を推し進めた(月溪 2010:105-106)。
 しかし、当時の観阿弥・世阿弥の行ったさまざまな改革は、雑多な芸能としての猿楽を統合することはなく、以後、娯楽的な猿楽を扱う集団と翁猿楽の集団が分離して独自の活動をするようになったという。ちなみに、観阿弥・世阿弥は、観阿弥が足利義満の前で翁猿楽を演じたことから、翁猿楽側の人間であったとされる。
 室町時代の猿楽は、観阿弥・世阿弥の登場以後も発展を遂げ、能舞台の使用、舞台道具や豪華な面・装束の追求にも力が注がれていった。
 こうして、観阿弥・世阿弥による活動の成果は、現在の能楽大成の瞬間として語られるようになった。

(2)時代背景
 観阿弥は、大和(奈良)の有力な猿楽座であった結崎座の中の、息子集団「観世座」の頭領として活動した。観阿弥と世阿弥は、室町幕府の三代将軍の足利義満の前で猿楽を演じ、足利将軍からその高度な芸と世阿弥の美童ぶりを大変気に入られた。その後、観阿弥・世阿弥らの猿楽は、足利歴代将軍からの後援と庇護を受け活動を続けた。
 しかし、観阿弥・世阿弥は、ある種歪んだ形で幕府に受容されていた。義満は、観阿弥・世阿弥が勧進興行などに出るときは、部下一同を引き連れ桟敷へ観覧に行った。そのため、上級階層である幕府の武士たちは、下民扱いされていた猿楽者の演舞を、足利義満の付き合いとして見ることとなった。また、義満は、永和四年に、世阿弥と食事の場を共にしている。このことは、三条公忠が『後愚昧記』のなかで、比興の事なりと非難の声を放っているほど、部下の武士たちにとっては受容しがたい事実であったのだろう(森末 1971:91-93)。
 以上のことから、観阿弥・世阿弥による猿楽は、足利将軍の後援と庇護の元でその芸術性を育んでいった。だが、足利義満の猿楽への愛着に疑問を持ち、幕府の人間は複雑な心境で芸能を受容した。幕府の武士たちの職業的芸能者に対するコンプレックスは、以後の足利将軍に世阿弥に対する態度の変化、そして足利義教時代の弾圧の火種になったと考えられる。
 
6. まとめ
 本レポート全体を通して、各時代の猿楽の特徴と時代背景、そして猿楽が現在の能へと大成していく過程をまとめることができた。
 猿楽は、八世紀に伝来した散楽をもとに、滑稽な物真似芸を中心としてさまざまな芸能と交わり形作られてきた芸能である。そして、その形成過程には、常に寺社や武家社会と密接に関わり、各々の時代特有の気風や特徴を写し鏡のように捉えて生き長らえてきたと結論づけられよう。
 私は、本レポートを作成する中で、芸能や音楽のあり方が常に時代ごとの経済や社会状況に密着していることが改めてわかった。また、多くの聴衆に純粋に愛されたように思える芸能や音楽も、実は特定の権力者の庇護を受けている場合があることも理解した。ある音楽文化を考えるときは、文化を形成した者の意図や思想などを丁寧に見ていく必要があるようだ。
 以上、振り返りのまとめを持って、本レポートを終えることとする。

参考文献
沖本幸子, 2016, 『乱舞の中世』, 東京:吉川弘文館
樹下文隆, 「第一章 能」, 阪口弘之監修, 1999, 『日本芸能史』, 東京:昭和堂
後藤俶, 1964, 『日本芸能史入門』, 東京:社会思想社
月溪恒子, 2010, 『日本音楽との出会い−日本音楽の歴史と理論』, 東京:東京堂
服部幸雄監修, 2009, 『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』, 京都:淡交社
森末義彰, 1971, 『中世芸能史論考』, 東京:東京堂出版
守屋穀, 1985, 『中世芸能の幻像』, 京都:淡交社

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