僕のファミリーヒストリー vol.5:京城(ソウル)時代の祖父・源六郎
ファミリーヒストリーをめぐる旅はまだまだ続く。第5弾。
祖父・源六郎、浅草から神戸・新開地を経て大陸へ。京城(ソウル)と哈爾浜市(ハルピン)へ。
慶應元年(1865)生まれの曽祖父・宮松が家督を継がず、岐阜県・美濃の上古井(かみこび)村を飛び出して、花のお江戸は浅草にやってきたのが明治22年(1889)。宮松、24歳のこと。
その浅草で明治23年(1890)、祖父・源六郎は曽祖父・宮松の長男として生まれる。
【祖父・源六郎の半生と、日本と世界の情勢】
明治23年(1890)0歳 曽祖父・宮松の長男として、浅草で出生。
明治28年(1895)日清戦争
明治37年(1904)日露戦争
明治40年(1907)17歳 曽祖父・宮松が亡くなる。
大正元年(1912)22歳 家督を継ぐ。
大正10年(1922)32歳 本籍地を浅草から神戸・新開地に移転。
大正10年(1922)32歳 笹本やすと婚姻。
昭和4年(1929)39歳 秀次と養子縁組。
昭和5年(1930)世界恐慌
昭和6年(1931)満州事変
昭和7年(1932)満州国建国
昭和8年(1933)43歳 秀次、京城(ソウル)にて死亡。
昭和8年(1933)昭和三陸大地震
昭和9年(1934)44歳 長男・秀行、哈爾浜(ハルピン)にて出生。
昭和11年(1936)二二六事件
昭和12年(1937)日中戦争勃発
昭和15年(1940)日独伊三国同盟
昭和16年(1941)太平洋戦争勃発
昭和19年(1944)54歳 妻・やすと協議離婚。
昭和19年(1944)54歳 小森みちえと婚姻。
昭和20年(1945)終戦
昭和21年(1946)56歳 源六郎、死亡
源六郎はなぜ浅草から新開地にやって来たのか、新開地で何をしていたのかは、今となってはまったくわからない。
座馬一族というのはマジで全滅していて、曽々祖父からの直系では僕一人(そして僕で終わる)、傍系はまったく分からないので、誰かに話を聞くチャンスがまったくないという八方塞がりなのだ。それほど、座馬一族は子どもが少なく、皆、短命。
そんなわけでなにも分からないのだけど、当時の新開地は、すでに娯楽の殿堂「聚楽館」がオープンし、松竹劇場がオープンし、神戸タワー(新開地タワー)も竣工し、神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立していた。
源六郎が新たに拠点を構えたのは、「東の浅草、西の新開地」として東西に並ぶ2大歓楽街と謳われた時代の新開地だ。
歓楽街から歓楽街へ。源六郎は賑やかな場所を渡り歩いている。
そしてそれは、新開地以降も続いていく。ほんまに、何をしていたのだろう?
賑やかな場所、カネの匂いのする場所が好きだったのだろうなと、僕のなかではそのような人物像が出来上がっている。
エンターテインメントが好きなのか、興行で儲けることが好きなのか、興行場所の周りで飲食等で儲けるのが好きなのか。
戸籍を追うかぎり、源六郎は、新開地を後にし、少なくとも昭和8年(1933)には京城にいる。源六郎、40歳のときだ。京城といえば、現在のソウル。
ソウルは、忠烈王の治世の1308年には「漢陽(漢陽府)」と呼ばれ、朝鮮建国後の1395年に首都になったため「みやこ」を意味する固有語である『서울(ソウル)』と呼ばれた。
明治43年(1910)、韓国は日本に併合され、その年に朝鮮総督府が置かれ、ソウルは「京城」と改称された。
その京城の大地に、少なくとも昭和8年(1933)の時点で、源六郎は立っていた。
なぜ京城だったのか?
それも今となっては知る術はなにもないのだけれども、当時の新開地の様子から推測できることがいくつかある。
兵庫朝鮮人労働運動史を詳細に遺している『むくげ通信 176号』(1999.9.26)(https://ksyc.jp/mukuge/176/horiuti.pdf)に掲載されている「大倉喜八郎と朝鮮」を見ると、新開地とコリアンの関係が見えてくる。
大倉山公園の西隣、1910年代〜20年代ごろ、湊川公園を含む一帯の荒田町に朝鮮人飴売りが群居していたと書かれている。
荒田町を拠点とし、親方を筆頭に10数名のグループをつくり、歓楽街へ出て飴を売り歩いていた。
彼らは神戸に在住した最も早いコリアン集団で、1910年代の脇浜などの埋め立て工事に従事した人たちが、後年、飴売り集団として歓楽街を闊歩していたようだ。
歓楽街から歓楽街へと賑やかな場所を渡り歩いた源六郎が、新開地で、コリアンの飴売りと接触した機会は、あったのだろうと思う。そこから朝鮮や大陸に憧れを抱いたということはなかっただろうか?
さらに、『大阪商船株式会社五十年史』(神田外茂夫編・大阪商船株式会社)を見ると、
大正2年(1913)末には大阪 - 釜山、仁川の朝鮮航路が運航している。それどころか、カナダのビクトリア(バンクーバー)やスリランカ、インドの孟買(ムンバイ)にまで定期航路は伸びている。
日本の組織的な移民がはじまったのは明治32年(1899)の南米・ペルー行きが最初だが、それからわずか10年で定期航路は世界中に伸びた。
この時代、日本人にとって、世界は一気に近いものになったのではないだろうか? いや、依然として海外雄飛にはえいやっ!と相当な勇気が要っただろうが、それでも、定期航路が世界に伸びていたという事実は、日本という国が右肩上がりで成長していくなかで全土を覆ったであろう高揚感とともに、世界を夢見た人の背中を押す現実的な一助にはなったのだろうと思う。
ここで冒険小説家の船戸与一の小説だと大陸浪人や匪賊となった移民の日本人が登場するわけだが、源六郎はおそらく、そうはならなかったと思われる。
昭和4年(1929)、源六郎は39歳で秀次と養子縁組をおこなっている。
大正10年(1922)に笹本やすと婚姻したが、どうやら子どもができなかったようだ。
この婚姻と養子縁組は神戸・新開地でおこなわれており、源六郎は一家を構えたのちに京城に渡っている。一家ごとの移民なので、匪賊になったということではなく、何某かの職を得ていたのだと思う。
戸籍からは、ソウル時代の居住地である「朝鮮京城府三阪通 68 番地」が読み取れる。
『最新京城全図』(日韓書房・1907)によると、
なんと、番地までドンピシャな場所が特定できた!
このエリアは、日本人の住宅地として広範囲に開発されたエリアのようだ。
1920年代に三阪通、それに隣接する岡崎町が宅地開発されていることを「東亜日報(1922年11月4日)」が記事で伝えている。
「三阪通(三坂通)」は日本統治時代の呼び名で、現在ではソウル駅から地下鉄で10分ほど東の「厚岩洞」(フアムドン・후암동)と呼ばれているエリアで、いわゆる日本人村。京城護国神社が建てられ(神社は戦後に取り壊れたが参道の108階段は現在も残され、まちのアクセントになっている)、今も当時の日本風の家屋が数多く残されていて、ノスタルジックな雰囲気を漂わせている。
https://maps.app.goo.gl/EPEQnB199aL27bVi7
このことからも、源六郎一家は日本人社会のなかで暮らしていることが分かり、匪賊としてではなく、社会の一員として暮らしていたようだ。ただ、生業が分からない。
浅草、神戸・新開地とエンターテインメントのメッカを渡り歩いた男が、ソウルの三阪通になにを見たのだろう?
宅地開発でこのエリアの住宅地価格が高騰し、ちょっとしたバブルの様相を呈していたようだが、エンターテインメントというよりも、カネの匂いを嗅ぎつけての渡韓だったのだろうか?
相変わらず分からないことだらけだが、
神戸・新開地にて養子に迎えた秀次は、この京城(ソウル)・三阪通で亡くなっている。昭和8年(1933年)、享年17歳。
養子とはいえ、つくづく座馬家は短命だ。
このとき、祖父・源六郎の戸籍には記載事項が一気に増える。
昭和19年(1944)妻・やすと協議離婚。
昭和19年(1944)小森ミチエと婚姻。
源六郎は子どもができなかったやすと離婚し、同日、小森ミチエと婚姻届を出す。
しかし、それは書類上のことで、それよりも10年以上前の
昭和8年(1933)やすとの間の養子である秀次が京城にして死亡。
翌年の昭和9年(1934)、ついに僕の父・秀行が出生する。
父・秀行の母は、秀行を出産して10年後に戸籍上の後妻として座馬家に迎えられるミチエである。
場所は哈爾浜(ハルピン)。
父・秀行が出生したとき、
祖父・源六郎、54歳、
後妻・ミチエ、24歳。
30歳の年の差婚である。
やっぱ、祖父・源六郎が一番いろいろとやらかしており、スケールが大きい。
座馬家に大きな風が吹いているように、日本を取り巻く世界の状況にも嵐のような風が吹いている。
昭和7年(1932)、関東軍が柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破して満州事変が引き起こされ、満洲国が建国された。
翌年の昭和8年(1932)、源六郎は満州の哈爾浜(ハルピン)にいた。