ラッキーウッドの窮地を救った、くもの糸! ~デラックス誕生秘話①
皆さん、こんにちは!ラッキーウッドの小林です。
今回は、イチゴスプーンの「デラックス」の続きです。
ラッキーウッド・デラックス誕生秘話その①
江戸時代の中ごろ、水害の多発地域だった新潟平野のど真ん中、燕三条に「鍛冶業」というフェニックスが舞い降り、貧しい農家から脱却。
三条は打ち刃物や大工道具、燕は家庭用金物中心に発展しますが、明治時代に洋風文化の台頭で燕のみ多大な影響を受け、衰退してしまいます。
(その時に、燕の工房たちの窮地を救ってくれたのが「大河津分水」工事への労働者の強制提供だったと思われ、非常に興味深いです。)
そして明治の終り、再び燕に舞い降りたフェニックスが、金属洋食器(カトラリー)産業でした。
燕の最大の転機は戦後、アメリカの進駐軍からステンレス製カトラリーの量産の依頼があり、全燕職人の英知を結集、世界ではじめて量産に成功し、燕市全体どころか日本の主力産業として、いち早く当時最強だったドルを獲得、国から表彰されています。
(当社も、3代目鉄之助が繊維業界の量産機械を改良して開発し特許を取得した「電動式金属洋食器専用研磨機」を皆に公開し、量産の成功に貢献)
その後、デザインの模倣問題で日本はアメリカから経済制裁を受ける事態となりますが、それまで多くの実績がある事と、これから日本を支えるだろう産業を守るため、燕が日本を代表して制裁を受け、アメリカへの輸出重量を半分に制限させられます。
(当時は、おそらく90%以上がアメリカへの輸出だったので、燕の総売上のほぼ半分が突然減った事になります。これはバブル崩壊後や、様々な世界同時不況といえども、この数字を越せたものは今までありません!)
その頃、戦後復興下ではバイヤーは皆大切な御客様でしたので、「ノーブランド」品の依頼が当社に来た時は、当社のブランドを押すことを条件として、やんわりとお断りしていました。もしそれが模倣品の依頼だった場合は、ブランド名入りは出所がわかってしまうため、あきらめてくれます。
戦後すぐ (1947年) 日本で商標登録した「LUCKYWOOD」を、最終的には世界60ヶ国に登録をするのですが、最初はそんな使い方をしていました。
でも、そのように当社はバイヤーズブランドにあこがれ、模倣品は作らず、言われなくても品質を上げ、誠意を持ってものづくりをしてきたのです。
ところが、4代目小林正一 (当時は営業担当専務) がカナダへ出張した際、飛行機で隣になったカナダ人と仲良くなり話していた時、日本人とわかった瞬間、彼の血相が変わり「今度はどこに何を盗みに行くんだ!」とスパイ扱いを受け、まじめな4代目は大変なショックを受けました。
同じくして、日本は高度経済成長となり、人件費高騰や物価高で、3年間で3度の2ケタ値上をせざるを得ず、その結果、アメリカの主力得意先が台湾等の他国へ生産場所を移し、売上も半分以下に落ち、当社にとっては経済制裁以上の大打撃となりました。 (現在の経済状況に少し似ていますね)
以上の事件により「世界の下請け」の限界を見た4代目は、オリジナルデザインを切望し、デザイナーを探しに世界を飛び回ります。
すぐに使えるデザインは、やはり今までのバイヤーの仕事で知り合えた、海外のデザイナーにしてもらうのが一番でした。が、直接お願いしに行くと、「日本製品のデザインをしたら名を落とす」と、ことごとく断られました。
模倣問題によりアメリカを中心に「日本製品不買運動」が起こっていて、最悪だった当時の日本のイメージを物語るエピソードです。
さらに打ちのめされ、帰国した4代目は、国内でデザイナーを捜します。
ですが、日本では工業製品のデザイナーがまだ少ないどころか、当然カトラリーのデザインの経験者は皆無と思われ、大変苦労をしたようです。
「300万円をドブに捨てた」という最低な言葉が残されているほど、4代目は思うようなデザインに全く巡り合えなかったのでした・・
柳宗理氏がインダストリアルデザイナーとしてデビューする昭和39年よりも、数年前のお話です。(その②に続く)