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それは、「横田切れ」からはじまった・・ 燕三条・金属加工産地誕生の謎にせまる!

今や、世界に知られる金属加工のメッカ「燕三条」は、新潟平野のど真ん中にあります。何故、そんな田んぼしかない場所に、そんな産地が出来たのか!?   不思議ですよね?
その理由とは!

弥彦山と角田山の間、間瀬という場所に銅山がありましたが、実は、その銅が見つかる前から、鍛冶業がスタートしていました。
銅器の発展に貢献はありましたが、誕生理由にはならないかと。

もともと、信濃川が蛇行していて、長岡方面から、燕三条に来た入口に「横田」という土地があります。そのあたりで「中之口川」と別れて、また白根で合流します。目のようなかたちです。さらに、山側・三条の「信濃川」には、支流が3つ「刈谷田川」「五十嵐川」「加茂川」がまつげのように注いでいます。
長岡の山の方から平野の向かって斜面を流れていたのが、横田で急に平らになるので、急ブレーキがかかり、水が溜まりやすく、さらに雨が降ると、3つの支流から水がどんどん流れ込んできて、信濃川の水かさが増し、さらにブレーキがかかり・・ ついには逆流現象が起こります。
そうなると、横田の土手が耐え切れず、決壊。

これが、毎年のように起こっていました。中でも、写真の1896年(明治29年)には、新潟県のほぼ全域に到達するほどの水害となり、新潟県費の一年分を費やすほどの被害となったそうです。
(その規模の水害が、その後2回も続いたため、明治政府が大河津分水の工事に、やっと本腰を入れることになりました。その前後には悲しくも壮絶なドラマがあります。それはまたの機会に。)

さて、毎年の水害により、当然自然環境厳しく、沼の中で稲を刈ってたり、皆貧しい農家でした。このままでは皆餓死してしまうと、当時の領主が、江戸と仙台から(諸説あり)和釘の技術を学び、海の塩を求めて八十里越えでやってくるヤスリで栄えていた山形・福島人から砂鉄を、三条の山手の下田郷から木炭を、水害で農業が出来なくなったり、農閑期の豊富な人手もあって、江戸自体の中期、三条に鍛冶業がスタートします。遅れること10年、燕も三条にならい、和釘の鍛冶業を開始。
産品が出来ると、水害の元である悪魔のような川は、実は水が豊かな証拠でもあり、大阪から「北前船」が三条まで来れたくらい深さもあって、当時は陸路より水路の方が早く市場に届けることが出来たため、燕三条地域は、持ち前の工夫とバイタリティーで、その後正産品をどんどん増やし、地域の産業を栄えさせ、Vの字回復を果たすことになります。

何故、田んぼの真ん中に、こんな金属加工のメッカが出来たのか?
以上が、そのきっかけとなった、環境のこと。

私が思う「本当の理由」

それは、水害や厳しい環境のなかで、培われた
打たれても打たれても、また起き上がる雑草のような
「打たれ強さ」が奇跡を、フェニックスを呼び、

厳しい環境下では、いろんな知恵を絞らなければ、
もくもくと、言われなくても良い仕事をしければ、
生きてこれなかった、
その精魂が、「職人気質」につながり、

何かあったら、垣根を越えて、助け合わなければ
生きてこれなかった、
この気質が、「産地」を生んだのだと。

よって、その理由のすべては、
この地域の「人」の中にこそ、あるのだと
私は思うのです。(涙)

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