見出し画像

外資系で始まり日系企業に行きついたあるビジネスマンの半生 ~1

新たな人生に向けて。 これから世の中で活躍しようとされている方々へ、私のささやかながら失敗談を共有してお役に立てることがあればこれほどうれしいことはないのではないか、と思いノートを始めることとした。 

社会人を30年以上続けてきて、勤め人としてのキャリアも終盤に近づいた。 思えば日本人としては非常にかなり変わったキャリアを積んできたものだ。 高校生の時親元を離れ2年の欧米海外留学をした。 卒業後日本の大学に入り、5年かけて卒業したが、なにを考えたか、外資系投資銀行に入社した。バブルがまだ始まる前で、友人は大手の「都市銀行」に大量に就職していった時代だった。  

その後、外資系投資銀行は3社を通じて合計15年の経験をした。正確には知らなかったが、3年目には日系の大手製造企業に30年務めていた父親の給料を追い越してしまったようだ。 海外出張はすべてファーストクラス(これはすぐに廃止されたがその後はすべてビジネスクラス以上)、3人に1名程度の秘書がつき、面談する顧客が部長ないし役員以上という環境。 

この世界の「異常さ」(その状態が永遠に続くのであれば「異常」と感じる必要はないのだが、永遠に続くとは到底思えなかった)を感じた自分は、7年目に米国のMBA(経営学修士)を取りに渡米した。MBA留学の真の目的は、国際機関で働くこと。 日本の学士は、トップレベルの大学であったとしても、海外では通用しないというか、入社資格がない。特に国際機関はそれが明確だ。 「日本は学歴社会かどうか」議論されることがよくあるが、多国籍の人間が行きかう国際社会に比べると日本ほどいかに学歴社会ではないかと痛感する。 

ビジネススクールでの留学経験は今でも忘れることのできない貴重な経験だ。東海岸にある金融に強い学校に入学した自分は、統計学や金融工学等数学が学問のベースとなってした。また、80年代の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代を受けて、学年の10%を日本人の留学生(そのほとんどが企業派遣)占め、授業のケースでもトヨタのカンバン方式をはじめ、日本の企業から学ぼうとする教材が多くとりいれられていた。おりしもイラク戦争に参加していた米国兵士たちが、軍備縮小の流れを受けて兵役を解かれ新たな人生を歩む時代であった。ウエストポイント(陸軍士官学校)、ネネイビー・アカデミー(海軍士官学校)を卒業したエリート将校たちがビジネススクールに入学し親しくなった。とかく自己主張の強い米国社会の中で、寡黙に自らのミッションをこなす彼らには大変親近感をもち、親しくなった。

以下次の投稿に続く。 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?