24年間という短い命を燃え尽きた樋口一葉に学ぶ、時代と貧困からの生きる意味とは
こんばんは。ベイジュです。
あなたは24年間という短い命だったら、何を優先にして生きますか?
一葉に比べたら、私の悩みがすごくちっぽけに感じてしまいました!
短命だけど、波瀾万丈に生きた樋口一葉について書きます。
○樋口一葉という人物とは….
誕生:1872年(明治5年)5月2日
没年:1896年(明治29年)11月23日(24歳没)
本名:樋口奈津(なつ)
東京千代田区内幸町生まれ。5人兄弟の次女として育つ。
以下こちらのサイトが分かりやすいので、見ていただけたらと思います。
樋口一葉は、貧困から内職や小売もやっては見たものの、生活になくにはならず、文学で家族も一緒に養っていこうと決めました。
一葉は、19歳の時に31歳の文学の師でもある半井桃水との恋仲になっていたと言われています。半井桃水という男は、妻と死別し、イケメンだったようで、いろんな女性との関係もあったそうでした。
そんなこともあり、社会的な背景から別れることになりました。
この時の苦悩などが、その後の作品に多いに影響を受けてるのではないかと思います。
ただ、残念なのは、今はとにかく生きる為に、文を書くと意気込んでいたと思いますが、これが最後の一葉の恋でした。
半井桃水とについて詳しくはこちらをご覧ください。
○明治時代の金銭の価値
一葉が16歳で書いた『暁月夜』は38枚の原稿料11円40銭だったそうです。
また、当時の巡査の初任給が8円ほどでした。
およそ1900年前後から、現代にかけて物価、収入とも2万倍ほど上昇しています。よってこの当時の11円40銭は22万800円ほどとなります。
また、明治の1円は現在の2万とも言われています。
田辺花圃は『藪の鶯』の原稿料33円20銭(現在:約66万円)だったという話を聞き、一葉が文学の道に進むきっかけになったそうです。
一葉にしても16歳にして、1つの原稿で22万を稼いだので、やはり文学の道しかあり得なかったのでしょう。
ただ、まだ10代の女の子にして、一家を支える大黒柱としては、相当なプレッシャーストレスがあったのではないでしょうか。
元々、学問が好きで、和歌や詩に習っていたとしても、文才があるとは限らないし、人づてに仕事をもらっていた一葉は、かなり恵まれていたと思います。もちろん生きるための圧倒的な努力、勤勉さがあったからこそ、仕事を獲得し、ものにして行ったのだと思います。
○明治時代の教育と識字率
識字率のグラフが見つからなかった為、就学率で比べてみます。
明治初期は男性50%〜60%に対して、女性は20%でした。
やはり、男女の学問に対する価値観に大きく差があったのと、地域ごと差もかなりあったようです。
一葉の母が女に学問はいらないという考えだったので、その中でも、文学の道に行けたのは、父や妹、先輩や師匠の力も強かったように思います。
また、文字の読み書きができない、遊郭の女性に変わって、文(ふみ)を書いたりしたことによって、辛い境遇で働く彼女たちの状況、心情などが、生々しく伝わってきて、それにより『にごりえ』や『たけくらべ』といった素晴らしい作品が生まれました。
『にごりえ』の主人公、お力に一葉はこんなセリフをいわせています。「これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だ」この時代の貧しい女性たちの本音をえがいていました。
当時もっと多くの女性の識字率があれば、もっともっと彼女の小説は話題になっていたかもしれません。
一葉の後、5000円札の肖像画になる津田梅子は、時代は同じですが、家族にも恵まれ、海外に留学するなど、高度な学問を学びました。
彼女は、女性も学問を広めることに一生を懸けた方で、また一葉とは違いますが、現代の女性の社会進出に貢献した女性です。
最後に…
一葉は生きていく為に、家族を養うために、恋愛もせず、一心不乱に小説を書き続けた。死ぬまで小説を書き続けたのは美談ではあるが、彼女は本当に幸せだったのだろうか?父親の借金を返済しながらも母親と妹も養わなければいけない切迫した状態だった。借金を置いて、一人になったら、裕福になれただろうに、病気にもならなかったかもしれないのにと思いますが、一家の大黒柱として支える彼女がとても逞しく、私も決めたことをやり遂げる一生を送ります。