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木の上のまくらのすけ
「木の上のまくらのすけ」とみんなは少年のことを呼んだ。
なぜかというと、少年は木登りが得意で、よく他のだれも登れないような高い木の上に登っては、そこでぼんやりとしていたからだ。
「あぶないぞ、あぶないぞ」と親や先生たちは口をすっぱくしていったが、こればかりは止められなかった。木登りそのものよりも、木の上でひとりぼんやりいろいろなことを空想するのが、少年は好きだった。
木の上は別世界だった。
そこは彼だけの王国であり、親も先生も友達もいなかった。雲がすぐ手のとどくところにあり、下の世界とはちがった風が吹いていた。
わたつみ神社の境内にある楠の大木が、少年のお気に入りだった。天気の良い日は、たいてい、学校がひけるとまっすぐわたつみ神社にかけつけた。
ときどき悪童どもが「まくらのすけ! まくらのすけ!」とはやしたてながら追いかけてくることがあったが、木の上に登ってしまえば、少年に恐いものはなかった。いくら悪童どもがはやしたてようと、石を投げようと、はるか木の上の少年にはとどかなかった。
ときには学校をさぼって、木の上で一日過ごすこともあった。朝から良く晴れて、ぽかぽかとあたたかい春の日など、とても学校に行く気にならなかった。
少年は学校が嫌いだった。
暗くて、狭苦しい、折り箱みたいな教室が、大嫌いだった。やたらまずい給食も嫌いだったし、国語も算数も理科も社会も、みんな嫌いだった。
少年にとって、教科書に印刷された文字は、解読不能の意味のない暗号としか見えなかった。先生の質問に「はい! はい!」と手を上げて答えるクラスメートたちが、みんな異星人に見えた。
少年は不思議でならなかった。なぜ他のみんなはあんなところに一日じっとしてることにがまんできるのだろう? まるで生まれる前から決められたことみたいに。
「あの雲はモスラに似てる」
と、少年は山の彼方をながめながら思うのだった。
「あれはアンギラス。あれは、ウルトラQに出てきた土の中をもぐる怪物だ…なんてったっけ? ああ…怪獣たちの大群が町の上を通り過ぎてゆく」
ときに少年は本当に怪獣たちの咆哮を聞いたような気がした。
一度、担任の先生が心配して、木の下まで少年を迎えにきたことがあった。
うまく茂みのかげにかくれたつもりだったが、下のほうの枝にぶら下げておいたカバンと靴が見つかった。先生はわざわざ運動会のときに使うスピーカーを持出してきて、木の上の少年の説得をこころみた。野次馬のクラスメートたちがぐるりと木のまわりを囲んだ。
「××くん。降りてきなさ。きみは完全に包囲されている」
先生はまるで刑事ドラマみたいなセリフをいった。
「友達もみんな来てる。きみのことが心配で、みんな勉強が手につかないんだ。すぐに降りてきなさい。ぼくはきみをけしてぶったりしない。家の人にもだまっててあげる。だから降りてきなさい。いっしょに学校に帰ろう」
まだ若い先生で、教育熱心な先生だったのかもしれない。しかし、少年はこの先生が苦手だった。
その日は結局夕方日が暮れるまで半日木の上でねばった。最後のクラスメートと先生が、捨てゼリフを残してひきあげてから、少年はやっと木から降りることができた。
何日かして、少年が学校に顔を出したとき、先生はひとこともものをいわずに顔をそむけた。
何年ものあいだ、少年は木の上ですごした。だからほんとうに友達といえる友達はひとりもいなかった。子供たちのあいだではやってる遊びも少年には無縁だった。
また友達が欲しいとも思わなかった。しゃべるのが苦手だったし、人といっしょに何かをしたり、団体行動をとるのが、根っからできない性格だった。少年は自分で頭からそう思いこんでいた。
ところが、ある日。
「まくらのすけ。まくらのすけ」
少年がいつものように木の上でうとうとしてると、どこからか彼のあだ名を呼ぶ声が聞こえた。
少年はねぼけまなこをこすりながら目を覚ました。
目の前に小さな女の子の顔がさかさまにぶら下がっていた。
少年はしばらくぼんやりした頭で、近所にこんな女の子がいたかなとか考えていたが、突然、はっとした。こんなところにこんな小さな子供が登ってこれるはずがないのだ。
「だれだ、おまえは?」
少年は背筋に冷たいものを感じて、おそるおそるいった。
「おれのことなど、どうでもいい」
童女は少年の顔をじっとのぞきこみながらいった。
「おまえはずいぶんここが好きなようだな。だからひとつおしえておいてやろう。十年後の今日、おまえはこの木の上から落ちて死ぬのだ」
その童女が何者だったのか、少年にはわからなかった。昔話で聞かされたことのある木の精のようなものだったのかもしれないし、ひょっとしたらクラスメートのだれかのいたずらだったのかもしれない。
けれどもそんなことはどうでもよかった。
少年はとにかく恐くて恐くてしょうがなかった。自分が木から落ちて死ぬという予言がではない。そんな遠いところにあるものではなくて、もっとずっと近くにある恐怖感に少年はとらえられていた。
何が恐いのか自分でもよくわからなかった。ただ、無性に恐かった。氷のワッペンを背中にぺたんと貼りつけられたような感じだった。
その日以来、少年はぱったりと木登りを止めた。
あんなに嫌いだった学校にも欠かさず行くようになった。友達にまじってわいわいさわぐようなことはなかったが、ひとりになるような場所はなるべく避けて、いつもだれかの近くにいるようにした。
「木の上のまくらのすけ」というあだ名もだんだん聞かれなくなった。担任の先生は「これこそ教育の成果」と驚喜した。
少年自身、自分にもこういう生活ができるのかと驚いた。クラスメートたちの少年にたいする態度も変わった。そうなってみると学校もまんざら悪いところではないような気がしてきた。
しかし、木の上で会った童女のことはだれにもいわなかった。
少年はやがて中学校を卒業して、その町の小さな工場に勤めた。
工場の人たちはみんな良い人たちだった。最初の一ヶ月、彼は無心に働いた。まわりの人たちはみんな手取り足取り仕事を教えてくれた。毎日夜遅くまで仕事がつづいたが、彼には苦にならなかった。
家に帰ってきて、夕食を食べながら彼が仕事の話をすると、母親は涙を流してよろこんでくれた。少年は生まれてはじめて現実的な幸福というものを知ったような気がした。
ある日、少年がいつもより二十分ほどはやく工場に出てみると、工場長と、いつも少年の話相手になってくれる古株の職工とが、笑いながら何か話していた。
「いやいや、そっくりだよ、ジンさん。あんた、よくそこまでまねできるもんだ」
「そりゃあ、毎日毎日つきあわされてりゃ、おてのもんすよ。けどね、おやじさん。あたしも今までいろんなのの世話やいてきたけど、あいつっくらいトロイのはいないね」
「まあ、そういわんでくれよ。おれもほとほとよわってるんだ。とにかくしばらく様子を見るしかないだろうがね。今、うちはネコの手も借りたい状況なんだからね」
「へっ、ネコの手のほうが、なんぼかましでしょうよ」
このときを境に、少年の中のまくらのすけがまたそろそろと頭をもたげだした。
二ヶ月ほどたったころ、少年は機械の前でうとうとと居眠りをしていて、ちょっとした事故を起こした。
工場の人たちはだれも口に出して彼を責めたりしなかったが、彼は自分の責任を痛感した。とても同じ機械の前に二度と立つことはできないだろう、と彼は思った。
翌日、少年ははじめて無断で工場を休んだ。
知らず知らずのうちに、足はわたつみ神社へと向かっていた。ぽかぽかあたたかい野原を歩いていると、昔の記憶がありありとよみがえってきた。木登りのたのしさと木の上の世界のすばらしさを少年は思い出した。
久しぶりに来た木の上の世界は、昔と変わっていなかった。雲がすぐ手のとどくところにあり、下の世界とはちがった風が吹いていた。少年は嫌なことをすべて忘れて、その日いちにち木の上でぼんやりしてすごした。
次の日も少年は工場へ行かなかった。
三日目の夜遅く、工場の人たちがふたり彼の家を訪ねてきた。その人たちと顔を合わせるのが嫌で、母親と彼らが話しているあいだに、彼はこっそり裏口から家を出た。
少年はわたつみ神社への道をとぼとぼと歩きながら、考えた。
「たぶん、ぼくは工場にはもどれないだろう。クビであたりまえだ。やくにたったためしなどないのだから」
夜、わたつみ神社に来たのははじめてだった。楠木の大木は星月夜の明るい空にくろぐろとしたブラックホールのような枝葉を広げていた。さすがに木の上に登るのはためらわれた。
いつのまにか少年は、木の下でひざをかかえて眠り込んでいた。
ふと目をさますと、二メートルほどはなれた木の影に、大きなコウモリのようなものが逆さにぶら下がっているのが見えた。それが何物なのか、少年はすぐに理解した。
「まくらのすけ。まくらのすけ」
やがて昔々聞き覚えのある声がいった。
「又おまえはここにもどってきたな。覚えているか、まくらのすけ。あと五年だ。五年後の今日、おまえはあの枝から落ちて死ぬのだ」
「いいよ。ぼくはもういつ死んでも」
少年はふるえる声でいった。
「五年も待つことないさ。それがおまえの望みなら、ぼくはたった今、あすこから落ちて死んでもいい」
「なぜそんなことをいう、まくらのすけ。おまえは人生に未練はないのか?」
「未練なんかないさ。どうせぼくは役立たずだ。工場もクビになった。だれもぼくには何ひとつ期待してない。五年後に死のうが、今日死のうが、同じことさ」
童女はかたすかしをくわされたのか、しばらくぼんやりして少年の顔を見ていた。それからやっと心を決めたようにいった。
「では、こうしよう、まくらのすけ。おまえは今夜のうちにこの町を出るのだ。何も持たずに、身ひとつでいい。明け方まで国道を歩けば、F市に着く。F市に着いたら、おまえはひとりの娘に出会うだろう。その娘はおまえの運命を切り開き、幸福な未来を約束する娘だ。おまえはただ運命に身をゆだねていればいい。その娘がおまえの才能を見出し、だれもがおまえの才能の価値を認めるだろう。おまえを役立たずなどという人間はだれひとりとしていなくなるはずだ。ただ、ひとつ、約束してもらわなければならない。五年の幸福な年月をすごしたあと、おまえはここにもどってくるのだ」
「何のために?」
童女はその問いには答えずに、ただ不思議な笑顔をうかべた。
「もしもどらなかったら?」
少年は小さな声でいった。
「おまえはもどってくるのだ」
童女は断言した。
「おまえの死はおれの手のひらの上に書かれている。幸福な五年間を約束するのが、おれのせいいっぱいの情けだ」
少年に選択の余地はなかった。その夜のうちに、彼は町を出て、F市へ向かった。
☆
さて、今、ぼくたちはF市の「アンシャモナンダの市民」というコーヒーショップで、彼の作品のひとつを見ることができる。
それは畳一枚ほどもあるみごとな水彩画で、その店のマスターのご自慢だった。
「いや、こいつを手に入れるのには、ほんとに苦労したよ」
機会あるごとに、マスターは大げさに腕組みしながらいうのだった。
「なにせほんの三年前までは県立美術館にあった作品だからね。いろんなとこから手をまわして、大金積んで、やっとこさわたしの店に落ち着いたのさ」
「ふうん。でも、あんまり聞いたことのない名前だな」
青白い顔した学生が、となりの女の子の顔を横目で見ながらいった。
「あら、少し前までは、けっこう売れてた人なのよ。ねえ、マスター。その人もう死んじゃったんでしょう?」
「そう。ある日、突然。事故だったといううわさだよ。こいつが最後の作品になっちまった」
マスターはブライヤのパイプをふかぶかとふかしながらいった。
それは巨大な楠木の絵だった。
木の上にはなぜか子供がひとりすわっていて、何かいいたげだった。