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松山氏に百万の援軍
コラム『あまのじゃく』1963/10/13 発行
文化新聞 No. 4591
政治家を上手に利用する⁈
主幹 吉 田 金 八
河野建設大臣が飯能に来て、「何でも松山に頼め、俺が責任を持って引き受けた」と大見えを切った。
自民党内の実力者であり、時めく建設大臣であるだけに、たとえ政治家特有の大ボラ、その場逃れのハッタリだと思いながらも、「そんなに河野が松山を贔屓にしているのなら、 松山に花をつけて、今まで国家の政治の恩恵に恵まれなかったこの地方を任せてやろうかな」という気になる。
松山が飯能に特に力を入れて、明日から国会が召集されるという繁忙を抑えて河野を引っ張り出したのは、前回石井ふき氏の情熱に引かされて、婦人層が松山派に熱狂したのが、今度はどうも様子が変だ、思いもかけぬ他派に河野が河岸替えをしたのではないかと思われる節々がある。
現にこの夜の後援会も、市婦人会長の中里さんが信用金庫の旅行で九州方面に旅行中のせいもあってか、婦人会では何時もの選挙に気合のかかる顔はほとんど見えなかった様である。
婦人の聴衆もあるにはあったが、個々散発の支持者とみられる顔のようだった。
これは松山女史が前回婦人層支持で飯能とすれば夫君故代議士の時に見られなかった大量の票を取ったのに比して同派とすれば気になるところであろう。
この懸念を緒戦において挽回しようというのが、今の河野の後ろ盾を誇る作戦であったと思われるが、これで相当気勢を盛り上げることに成功したことは否めない。
それながら、河野の演説を聞いていると、日本の政治も派閥の政治になった感が深い。
要すれば、「俺の言うことを聞けば何とでもなる」と言うことである。
「今、狭山市の市長の陳情を受けたが、どこぞの橋が柱が腐っているからと言うから、すぐに直すことを引き受けた」と河野大臣は大言壮語した。
河野さんは飯能は初めてだと言った。「早大の体育会長をしていて、マラソンで飯能に早大が厄介になっているから、飯能という名前を知っている」と言った程度である。
それが松山代議士の急場の応援で引っ張れてこられ、はからずも陳情で国道の橋の朽ちた柱を一本取り替えることを即決した。
これではまるで水戸黄門の全国漫遊記に出るような事態である。
日本の政治も何百年も前の水戸黄門、大岡越前の守時代の講談流を一歩も出ていない、思い付き政治の印象を受けて情けなくなった。
私は貧乏新聞社をやっているが、自動車税だけでも年に3万円以上払う。ガソリンはだいたい月一万五千円、年18万円くらい払っているから、その半分以上(リットルのうち26円10銭がガソリン税)が税金だから、年には11万円以上のガソリン税を納めている訳だ。
これはどこの家、どこの事業所でも同じことで、最近の自動車流行りに、この面の収入は国家として莫大である。
自動車で走ってみて、「どうしてあんなに税金を取っているのに道を直さないのだろう、これにはよほど役人が汚職をして、業者がごまかしているせいだろう」と、いつも腹を立てることばかりである。
しかし、河野大臣におもねて割込み乗車をする手も、所謂、世渡り上手かも知れない。大臣政治家はどこへ行っても大体、同じ様なことを言って人気を取る商売ということも心得ておくべきである。
ともあれ、松山派にとっては河野大臣の応援は百万の援軍の価値は十分であった。
コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】