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師走所感

コラム『あまのじゃく』1953/12/29 発行 
文化新聞  No. 1121


 『無駄もまた必要なり』

   主幹 吉 田 金 八

 門松が虚礼廃止で各地で問題になっている。東京の婦人会で門松のかわりに何か文句を書いたシャモジを門口に張り出すことを考え出した。
 凶作で米が食いかねるから、シャモジはいらないという洒落かもしれない。ところが凶作だというのに、産地には米がうなっていて、割の良い超過供出はワンサとばかり、所によれば割り当てを50% も上回ったというところもあると聞く。
 農林省の作柄報告もデタラメなものであることが14年目の今日になって暴露されたのみか、こんなでたらめの収穫報告や割り当てに基盤を持つ米の統制は、必要ないと農林官僚の中から声が上がったとは皮肉である。
 記者は終戦と同時に米の統制を撤廃しようと叫んでいる。
 統制のためにどれだけ余計な人間が無駄仕事をしているのかわからない。
 虚礼というのは心にもない礼儀のことで、腹ではやりたくないが他人がやるから、押し付けられたから、嫌々やるのが虚礼である。
 今年の門松についても、何かの会合で「土工組合が高い門松を軒並みに売りつけるのは、商工会議所あたりが音頭をとって何とかならないものか」という注文が斎藤会議所専務につけられた。
 商工会議所には、土工組合から睨まれてもそんな音頭取りをする勇気がないことを知っているから、記者が横から口出しして、「別に門松を押し売りするわけではないから、自由取引で良いのではないか。会議所が音頭取りでそんなことを言い出せば、斉藤さんが土工組合から吊るし上げられるかも知れない」と冗談の助け舟を出した。
 記者のとこでは本当のお正月嫌いだから、毎年町内の頭が来ても、記者がいると断ってしまうので、お袋から注文を取って一番安いやつを頼むのが例になっている。今年は新聞社の社屋が横丁に引っ込んだので、門松の建て場所がないから進めに来ないと思っていたら、やはり抜け目なくおばあさんが承知したからと言って立てに来たから、『そんなら住居の方へ頼みます』ということで450円とかの口が立ったが、暮の27日だというのに、松の葉はあらかた子どもにむしられてしまった。
 子供などは大通りは自動車の往来が多いので、横丁でボール投げや羽根つきをやるので、松の葉が手近いので荒らされたわけである。
 老人や子供はやはりどこの家とも同じように門松を立ててたいものらしい。立てたいものを立て、「この砂糖の折りで、また今年も上役に引き立ててもらおう」とか、品物を売って利益を見ようとかする場合の門松やご進物は虚礼の部には入らない。
 日本人は虚礼好きだと言って、アメリカあたりは合理的な生活をやっているように言うが、アメリカにはクリスマスという、日本の盆、正月と同じような習慣もあり、松の木の代わりに何の木かは知らないが似たような無駄をやっている。
 『無駄もまた必要なり』で人生に無駄がなかったら、いかに殺伐たるものであろう。好んでやる無駄は生活のゆとりであり潤いでもある。
 一番無駄のない生活は、刑務所に繋がれることであろうが、そうなればその者自体が社会の無駄物になってしまう。
 戦争のように他に迷惑をかける無駄をこそ慎むべきだが、門松も来年年始のご贈答も結構なことではないか。ただし、嫌々ながらのお付き合いは一番無駄であり、虚礼であることは言うを待たない。


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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