すたらずに済んだ男
No.コラム『あまのじゃく』1962/10/21 発行
文化新聞 No. 4290
現れた福の神…意外な人から拝借
主幹 吉 田 金 八
社説(あまのじゃく)に『金をお貸しください』と書くのは世界広しといえども文化新聞だけ位であろう。
しかし、これで金の貸し手が現れなかったら文化新聞も情けない。吉田金八も男が廃る、とこの数日仕事をしていても気が気でなかった。電話のベルが鳴ると聞き耳を立てているが、待てど暮らせどそれらしい電話がかからない。
金が入用なのは20日であり、私の手の離せない仕事は21日までである。
あの社説を書いた夜は、恋人の手紙を待つような胸を膨らめた思いで、女房や子どもの前に『これでお金が湧いてくるのだから、お父さんも偉いものだろう』と太平楽を並べていたが、日が迫るにつれて金を貸す人の現れるのを死刑囚が断罪の日を数えるような悲壮な思いになった。
19日の晩9時頃、自室の電話がジリンと鳴った。この番号にかける人は割合少ないのだがと、期待の思いで受話器を取った。知り合いの料理やからで、友人が久しく会わないから付き合えとの電話であった。
もう1時間ほど仕事を続けたい気持ちもあったが、根を詰めた仕事がもう四、五日続いているので、ちょっと息を抜きたいところだったので、手を洗っただけで飛んで行った。この友人は金持ちで、いつでも『金を貸してくれ』と言えば貸してくれない仲ではないが、さて、そういう人には仲々金のことは言えないものである。
幾日か旅行をしていて顔を合わせなかったので、一緒に酒を飲もうというので呼んだとのことであって、私が書いた金のことを読んでいないらしくもあり、知っていてこっちの様子を見ようという風にも伺えたが、二、三時間酒を飲む間に、ついにそのことは言い出さずにしまった。いつも減らず口を聞き合う女中たちは『文化さん、いくらか痩せた? モテすぎるからだろう」と帰りしなに冷やかされた。私がこの頃いくらか痩せたのは健康が良くなったせいで、金の苦労でも女の苦労でもない。 夏頃より仕事の根気は良くなったことが自分でも判るようである。
いよいよ切羽詰まった20日の朝、これでは仕事の手を外して金工面に飛び立たなければならないかと思った。やはり同じ電話のベルが鳴った。 私の声を子供の声と聞き間違えるところを見れば、あまり電話で話し合った事のない人かもしれない。
『金は間に合ったかどうか、あの記事を見て、すぐ用立ててあげたかったが、文化さんのことだから申し込みが殺到していると思って、遠慮していた」とのことで、極めて慇懃な、私としては全く思いもかけない人であった。
お金はありがたく拝借することに話がついた。 私の電話を聞いていた子どもたちの顔も、『これで親父の男も立った』と言った安らぎが何とも言わないうちに感じ取れるようであった。
世の中には随分金を借りる名人もあるが、私はこのことから自分を顧みて誠に金を借りることが下手だとしみじみ思うが、また見方によればそんなことの下手な事が、ある面では信用になっているのかもしれない。
しかし、一度うまくいったからといって、図に乗って増長してはなるまいと心に銘じた。
突飛なことの好きな私の人生において、その突飛さに共鳴する人も無くは無いのだということが証明されたことも愉快である。
コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】
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