サボる役人
コラム『あまのじゃく』1951/11/9 発行
文化新聞 No. 178
役人禍の革新が急務
主幹 吉 田 金 八
もめた主食の統制撤廃問題も6日のドッジ氏と池田、周東、根本三相会談で最後の了解に達した模様である。
問題の米の統制撤廃は、原則的には認めるが時期、方法に関しては供出の進行を勘案して今後に持ち込されることになった。
アブハチ取らずの言葉もあるが、泰山鳴動ネズミ一匹の類で、消費者には若干の心配をさせ、農家は闇の夢を一刻描かせたのみで、供出が2、550万石にのし上がったのだから罪な話である。
土台、米の供出割り当てを目前に控えた今の時期に、供出が済んだら米は自由販売にするなどと言う予想を発表すること自体が、政治性がないと言うことである。
来年学校を出る学生に、お前は成績優等間違いなしと先生から教えられれば、子供は安心して学業を怠るに相違ない。供出後に自由販売ができるとあれば、何とか供出量を減じて自由販売に備えたいのは人情である。
充分に供出を収納した後に抜き打ち的に統制撤廃と言うのが政治ではあるまいか。
それにつけても腹立たしいのは農林官僚の態度である。統制が解かれれば自分たちの首が危ういばかりに、作柄、収穫予想等の数字に手心を加えたり、諸統計の提出をサボったりしたことも伝えられるが、心外千万である。
大東亜戦争の最中からこれまで、役人ののさばること目に余るものがあり、いつの時も国策を唱えて国策に協力せず、国民に不自由と首枷を押し付けることが専門のように思えてならない。
役人禍の日本を革新するために、革命の手段をとることが許されないならば『毒をもって毒を制す』で、とりあえず自由党の手で大行政整理をやらせたいと願うのは、あに記者のみでは無いであろう。
コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】