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チャタレイ公判

コラム『あまのじゃく』1951/5/17 発行 
文化新聞  No. 113


終着点は? 『男』と『女』

    主幹 吉 田 金 八

『チャタレイ夫人の恋人』の出版をめぐってワイセツか芸術かの論争が法廷に華を咲かせている。
 「シテやったり」とほくそ笑むのはワイ本の出版屋であり、広告料不要の宣伝効果120パーセントに、同書の復刻や謄写版刷りの秘密出版が俄然目論まれるのではないか。
 起訴する側も弁護する側も、まじめくさって法律論や芸術論を戦わせているものの、内実は動物的官能に興奮し、渇望し、好奇心を燃やしているのではないか。
 口をぬぐって法官面をし、弁護士面をしているのは、さながらおとぎ話の王様か漫画のおサルさんの如きものである。
 性愛の技巧や官能の実際は別にとりたてて目新しくも、もの珍しくもなく、貴人でも凡人でも、誰から教えられないでひとかどの持ち主になっており、ただ人前で誇らないだけである。
 ただ文学上の表現が優れたものと、下劣なものとの差異はあろうが、内容そのものは幾万年来、我らの先祖から繰り返していることで、幾世紀経ってもこのことくらい進歩も発展もないものはあるまい。放っておくことである。
 戦後あれほど氾濫したリベラル雑誌も、いつの間にか下火になってしまったが、飽きられるのは当然で、いかに工夫してみてもただひとつのことの繰り返しであり、焼き直しであり、着物や扮装は変わっても中身は一つであって見れば、そのうち鼻についてくる。
 取り上げるオモチャは、子供は泣くほど欲しがるが、しばらく放っておけば手放してしまう。
 騒ぐほどに喜ぶのは出版屋だけである。


コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。

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