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教組よ出血を防げ
コラム『あまのじゃく』1958/8/15 発行
文化新聞 No. 2994
後ろめたさが? 学童・父兄に
主幹 吉 田 金 八
勤評闘争をめぐり、教組と教委の板挟みとなって、所沢地区の教組支部の三役が教組を脱退するに至った。
教組ではあくまでも勤評阻止のために、トコトンまで戦う決意のようだが、果たしてこれが賢明かどうか。
教組の反対の底意は、この勤評を実施されることは、今後の日本の教育界に反動の圧力が加えられて、戦争につながる教育が強行されると思い込んでいるようであり、この決意は動かし難いもののように思われる。もちろん勤評実施を是が非でも強行しようとする政府の腹は、これが実施によって、今まで教組を盾にして言うことを聞かない教職員を、従順に飼いならそうという考え方であることは明白であり、教組がどんな反対運動をしようと、あくまでも力で対決して抑え込もうという決意のほども、各地の勤評騒動で、警察力を行使して血を流しても後へ引かない態度からも推察できる。
これに対決する教組の方も、政府に負けずその団結と統制力に物を言わせて、一歩も引くまいと頑張っている事など、決意と闘志は凄まじいものがある。
これは完全な力と力の対立であって、このままでいくならば、最後には一方の力が一方を押し切ってどちらかが地にすり伏す段階まで行かなければ、闘争は終結しないのではないかと思う。
勤評の是非については双方に充分の言い分があり、これは結局は平行線であって、おそらく理論的に一方が承服することはないであろう。 2x2が4ということを2x2が3と言い張るものは、屁理屈で相手を言い負かすことはできるが、こうした政治的思想的の見解の相違は封建社会では、頭領の鶴の一声、民衆社会では万機公論に決するのが定道である。
勤評をやるべしという自民党と、反対する社会党の分野は誰も知っている通りで、今の国会の分野は民心の素直な表現でないと社会党は言うかもしれぬが、国民が騙されている、無知だなど負け惜しみを言っても、自民党の方が社会党より多いのは現実であり、その多い自民党が決めた通りに今の政治は回っていくのである。
だから、長いものに巻かれろ式に往生しろと言うのでは決してない。
如何に多数を制する時の政権党でも横マンガは振るえない。
本当に民心に沿わぬ政策は、いくら国会で決めても行われないものであることは、戦争中政府がいかに統制の網を細かく張り巡らしても、国民がこれを尊奉しなかった闇(ヤミ)が、国権の上を横行闊歩したことをもって証明できる。
政府が、警察があれほど鵜の目鷹の目で監視した物資の闇流通を、国民はお互いが庇い合って言う事を聞かなかった訳である。
今問題の勤務評定が教組の言うように戦争を招来し、子供のためを思い、平和を願う正しい教師の月給を下げたり、気の向かぬ僻地に追いやったり、教員を首にするような悪い制度であったとしたら、どうして国民がこれを指を加えて見ている訳はない。
尊い教師と悪い教師は、子どもたちが第一番に知っており、学校の事となると目の色を変えて骨を折り、暇を惜しまぬ父兄が、どうしてこの片手落ち、不公平を見逃すものではない。
教組は勤務評定を恐れる前に、子供も父兄も正しい、教育に対して大らかな共鳴理解者であり、子供を愛する教師にいかなる場合でも、声援協力にやぶさかでないことを、もっと自信を持って良いのではないか。
教員が勤務評定を恐れるのは、子供も父兄も自分たちの味方であるという認識と自信に欠けているのか、只に監督者に対して後ろめたい勤務振りであるばかりでなく、自分と子供を通しての父兄へのつながりに自信のある奉仕をしていない証拠ではあるまいか。
教組は言う『勤評によって教師の階級、収入に段階をつけて、教組の組織と団結を分裂させる政府の悪巧み』と。恐らくその通りかもしれない。
立身出世を願い、他人以上により多くの収入を得たいというのが人間の本能であり、その為には上役におべっかを使ったり、見せかけの働きぶりをしたり、そうしたことによって栄達を図っているのは昔も今も同じである。勤評の行われなかった戦後の教育界においても、必ずやこれに類する教師は後を絶たなかったのではないかと思う。
しかし、そうした上手な世渡りが、全部が全部奏功しているのかといえば決してそうではない。
国民はバカでも鈍感でも、長い目では善いとか悪いの判定をそんなに誤るものではない。
上役に諂ってトントン拍子の栄進をした、要領万点の人間も如何本性馬脚を現して失敗すること間違いなしで、結局は正しいもの、働く者が最後には光を増すことは、これまた神武以来変わりはない。
いかに御用党の勤評者でも、白いものを黒いと点は付けられまい。校長に睨まれて月給が上がらなくなっても良いではないか。
教育者をもって認ずる者が、何も余計なことに目をキョロキョロするものがない。もっと大地を含みまえて、勤評も馬耳東風、安心して子供の教育に専念できないものか。
勤評阻止闘争で教組の組織が、勤評による分断以前に壊滅するようなことは「もともと反動的なものが、終戦後大勢に巻き込まれて仕方なしに教組に協力しているが、これらはこの機会に脱落することも仕方がない」とある教組指導者は語っているが、せっかく許され育まれた現在の教組を考えるとき、戦略的にも不得策ではないかと、私は教師というものが案外な個人主義、利己主義的性格の人が多いことを知っているだけに、今の日教組のあり方に非常に危なっかしいものを感じる。
学校の先生が戦争を招来するものは自民党であり、勤評であると思うなら、勤評阻止に自己の組織の運命をかけるよりも、この際は犠牲の少ないうちに一度兵隊を引いて、戦争招来党に政権を持たせないように、選挙の時にもっと踏ん張ってもらいたいものである。
コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】