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税金と奉仕

コラム『あまのじゃく』1951/4/1 発行 
文化新聞  No. 100


誰もが納得できる?税負担率

    主幹 吉 田 金 八

 税金はたくさん払わされるが反対給付が少ない、言い換えれば健康保険料は所得に比例するから貧乏人の何十倍も取られるが、保険給付は一銭も保険料を払わない要保護者と同一である。固定資産税や町民税は金持ちがたくさんいるからあざ全体としては他の部落より多く払わされるが、払った税金ほどに学校や消防の施設として戻ってこない。
 こんなばかばかしい事は無いから字を分離して独立しよう、と言うような考えが民主主義の社会に公然と言われ、行われたとしたら恐ろしい時代逆行である。
 これらの人たちは、いずれも富んだ人たちであるが、自分たちが儲かったのは社会とは関係ない、国家とも関係ない、自分自身の能力に依ったものである、との独りよがりのうぬぼれと資本主義の悪い面のみを信奉する個人主義者である。
 いかに優れた能力を持った事業経営者であっても、離れ小島のロビンソン・クルーソーのように、社会と隔絶させられたら到底「平仙」(*戦前から戦中にかけて我が国のレース業界に君臨した繊維会社。埼玉県西部)のごとき大きな富を得ることはできないであろう。
 また平仙レースが戦争の激しい最中に各家庭の鍋、釜が回収され、精米機、織物機械その他あらゆる金属類が取り上げられたとしたならばどうであろう。
 それのみではない。反対に他日日本が勝利を得たときの輸出産業の用意にと、レース機械のみは回収の対象とならなかったばかりか、機械を錆びさせぬために、貴重な綿布が特配され、レース針のさびない程度の操業が許されたと聞くが、これらの国民の血と汗の犠牲の陰に機械が温存されたことが、おそらく「平仙」の今日の大を保持したことを考えれば、世の中の富める人の成功の陰の力は、やはり社会大衆にあったと考えるべきである。
 何百町歩の山林所有者もその山林による富、収入は全部その所有者のものとして壟断すべきものではなく、その山林を山火事から守るためには社会大衆の協力が必要であり、日光や雨露、大地の恵みで樹木が成長するのであり、その利益の何分かは社会国家に帰属するのが当然である。
 その程度の通念は民主主義の常識であり、アメリカの如き高度の資本主義国ですら当たり前とされている。
 富める者、持てる者が余計税金を払うのは、貧乏人への恩恵として、慈善として払うのではなく、国家社会が当然の権利としてある程度の余計の分を税として課するのであり、その率は国家の性格に応じて変わってくるが、共産主義でない限り理念は同一である。
 学校消防等の町村住民の公共より受ける奉仕は、地区の地形、住民の環境密度に応じて要求すべきで、納税額等と天秤に懸くべき筋合いのものでは無い。
(*印 編者注)


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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