商人の根性
コラム『あまのじゃく』1962/10/7 発行
文化新聞 No. 4278
明治、大正の商人道に敬服 ‼
主幹 吉 田 金 八
浦和に行くつもりで快晴道路を走っていたら前方から斎藤承吉氏がオートバイで走ってきた。 場所は西部町地内、 同氏の荷台には牛乳の袋がついている。
晩秋だが、オートバイでは相当寒いに違いない。
斎藤氏が洋品店主でありながら畑違いの牛乳屋の店を引き受けたのは、同氏の親戚に当たる人が会社組織で牛乳屋を始め、借金ができて投げ出したのを、斎藤氏も親戚の関係で重役に名を連ねていた関係から、 借金を返しきるまで牛乳屋をやるということで、いわば責任上のことであると当時聞かされた。
その後も、市内で牛乳の配達袋をつけた自転車に乗る斎藤氏を見かけることがあった。最近の人不足で一番困っているのは新聞屋と牛乳屋である。
また、配達人の移動が激しいのもこの二業種で、配達が突然休んだ時など店主が慣れない配達までしないことにはお客にサービスが出来ない。
斎藤氏が配達しているのはそうした臨時の場合であろうが、市内でも一流の店の店主には出来ない芸当だと密かに感心していた。
それが今日はオートバイであり、しかもそのハンドルさばきは決して60以上の旦那とは見えない鮮やかさであり、寒さに向かってオートバイなど敬遠して、ちょっとのところでも四輪車にしている一回りも違う年代の自分自身が照れくさいような出会いであった。
斎藤氏が牛乳屋をやっているのは酔狂ではない。もちろん金儲けではない。親戚の者が作った借金の穴埋めで、それは決して法律的に自分の責任になることではないのだが、自分の顔を利用されて世間が与えてくれた信用に対する道義的な責任を果たそうと言うのである。
昔の武士は借金の証文に、『 もし返さなかったら、大勢のところで笑ってくれ』と書いたという。武士以外も借りたものは返さなければならないものと思い込んでいた。明治大正までそうした思想は厳として存在した。 最近は借りたものも踏み倒せ流がはびこってきた。担保抵当があれば逃げ切れないが、それがない限り年月が経てば知らん顔で、不義理の人の前でタンカも切りかねない世相となった。
斎藤氏が明治・大正の商人道に生きていくことにも敬服するが、オートバイに乗って牛乳を配達するという商人魂に徹しているのを見て、日本商人の根性として頭が下がった。
コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】