道路公団総裁転落
コラム『あまのじゃく』1957/11/9 発行
文化新聞 No. 2719
目前の享楽・美食に目くらまし⁈
主幹 吉 田 金 八
人工衛星が地球の周りをぐるぐる回って、月世界旅行も程遠からぬ内に実現できるという時代に、日本ではこんな狭い国土の行き来のための道路すら、満足には整備されていない。
試みに日本で一番良い道路であってしかるべき、東海道=東京大阪間にしてみても、まだまだ舗装されていない所が多く、長距離の定期便トラックが泥シブきを上げて、ひどい道を走っているのが現状で、『まさか東海道が』と記者の言葉を信じない人も多いが、これは自動車で走った人のみが知るところである。
仮に東京を起点として、奥州街道は宇都宮まで、中山道は高崎、甲州街道は小仏峠までしか一人前の道ではない。それすら途中まではまだゴテゴテ工事中のところにぶつかる状態で、誠に腹の立つことをおびただしい。
今朝の新聞で、道路公団の総裁の自動車が伊豆で道路視察中、県道が緩んでいたため、4メートルの崖下に転がり落ちて2週間の傷を負ったと報じられているが、本人には気の毒だが、道路公団の総裁だけに人工衛星と並べれば野蛮国と米国の文明国の対照で、そのまま漫画になること請け合いである。
一昨年以来飯能地方にも、天皇をはじめ、高松宮、秩父宮妃殿下などのお出でが続いたが、こうした名士の来る前には神武道路(本紙が命名して悪路の代名詞になったが、この『神武』の語は、その後に神武景気という流行語を産んで日本中に行き渡った)に急に砂利を敷いたり手入れを始める。最近は知事が視察に来るというのに、道路が良くなった例があるが、天皇陛下は別にして、知事の視察などは悪道の実際を見てもらうのが本来ではあるまいか。
私は知事や土木部長を国産の小型トラックに乗せて,飯能から武蔵町間の神武道路を規定速度いっぱいに走らせて、頭を車室の天井にぶつけて気でも失うことがあったら、少しは気がつくのではないかとさえ思っているのに、その知事が来るのに、わざわざ道路を直して軽快なドライブができるような、余計な事をするバカがいるのは困ったものである。
県民がこんなおべっか精神だから、道路はいつになっても直らない。電話は何番、何番を何回も繰り返し、果ては罪もない交換嬢を怒鳴ったり、一日中むしゃくしゃするような口論の種をこしらえたりする状態で、こんな文明国がどこにあるかと言いたいところである。
また一般国民もお人好しに出来ていて、アメリカの植民地政策にすっかりはまって、まともな学問技術の研究などロクにしようとしない。
野球はラジオ・テレビの変な音楽にうつつを抜かして、先日まではプロ野球の覇権をジャイアンツが取るか西鉄が取るかなどという、愚にもつかない事に全身の興味をかけている腑抜け振りであったが、人工衛星のビッグニュースで野球の興味がいくらかその方にそれたのは結構な話である。
野球選手や人気歌手に熱の入れ方は、日本人が一番気違いじみているのではないか。尤も、これは外国のことを知らない記者の独断で、笑う人もあるかもしれないが、要は罪のないことに日本国民の興味を集中させておいて、学術科学や産業建設のような、現在米国の独占する産業上の優位を奪われることのないように、日本人を骨抜きにする対日政策にすっかり引っかかっている訳である。
だから、家はアパートの部屋借りでも、どこの貴婦人かと思うような流行衣装を競ったり、まだ乗れる自動車を月賦で買い替えたり、長い将来の建設も理想も何もない、目前の美衣美食に追い回されるという、かつてのフィリピンの国民のように飼いならされようとしているわけである。
今度のソ連の人工衛星の打ち上げは、この意味でもアメリカナイズされ、骨抜きにかかった日本人に対する警鐘であると私は信じている。
コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】