ガリ勉の弊害ー大学受験の頃のネガティブな話
寒いけど、快晴の東京です。
今日もあの時の私に深く潜っていきます。
向き合いたくない、過去の
ブラックな思い出です。
閲覧注意です。
一日8時間の猛勉強の末、
一点突破。第一志望校大学に
合格を果たしました。
一番行きたいと望んだ
大学でした。
大学の見学で早稲田と立教とみて、
そしてここを訪れて、
さぁっと不思議な風が
流れた場所でした。
都心から離れた田舎に
あるクラシックな雰囲気の
落ち着いた女子大学です。
1日8時間のガリ勉の最後の方は、
もう「大学入ったら、こうするぞ」
「大学入ったらパラダイスだぞ」
と、勉強自体が苦しくなっていた。
その自分をごまかして
テレビもなし、音楽も封印、
好きなことも封印。
当時の偽の優秀キャラ設定を
演じていた自分が、
自ら自分に課したやり方でした。
丁寧に掘り下げます。
ここポイントです。
自分いじめの。
本当はこたつにはいって
家族と一緒にテレビみて、
けらけら笑っていたかった。
個室に入って、一人
孤独に勉強を強いた、
偽物の自分。
ただ、個室にこもって過去問と、
赤本とにらめっこして
英語の勉強をしていました。
まあ、「継続は力なり」
「努力は裏切らない」
ということがありますが、
この真面目な、意志強く
勉強に向かった姿勢自体は
否定もしませんし、今振り返っても
よく頑張っていたし
とても偉かったと思います。
神様からご褒美ありました。
ちゃんと努力を見ている!
大学の受験勉強だったけれど、
もう焦って、難しい大学だし、
受からないんじゃないか、
受かるのか?と一人でやっていると
不安になったりするじゃないですか。
塾もいきましたが、
冬期講習、夏期講習のみです。
これは、私の時代の地方的な大学受験のスタイル
だと思います。
東京では、中学、高校から一貫校とか
大学の付属校を選んだりして
通ったり
独自のルートで私立に通ったり学校を選んだうえ、
大学にいくための準備を
6年間かけてやります!って
いう多様な選択肢がある環境ですよね。
低年齢の時から
塾に通う家庭も多い。
私の時代の田舎では、
そういう恵まれた学校が少ない。
塾が近所にない。近所が住宅街。
そういう環境要因的なところで、
普段は高校生活と自学がメイン。
長期休暇を利用して、冬期講習や
夏期講習の集中特訓を利用して
自力で大学受験の準備をするのが
当たり前でした。
赤本以外にも、親和性があるのかなと思って
書店でTOEFL用の参考書を
選ぶというひらめきがあり、
そんなものも使って英語の対策をしていた訳ですが・・・
そっくりそのまま山が当たった。
洗濯=Do the wash
等の穴埋め問題で
ポンポンポンっと
見事完璧に解けたのです。
これだけでも点数がかなり
獲得できたので、結果的に
世界史で不安要素があっても、
見事オンリーワン
の第一志望校に合格ができたのです。
これは、ご褒美的な経験でした。
この自室にこもって勉強をしていた
本来青春のはずの高校時代は
孤独そのもの。
摂食障害で、周りは敵。
それもあって、塾などにいっても
周りに心を開いたり、
知り合いを作ったりするよりも、
知り合い=ライバルみたいな
敵視をしていたので、
孤高のイメージでがむしゃらにやっていました。
そして、自室にこもった期間は
母や妹との交流も持てませんでした。
今、時間を取り戻したいですし、
妹からしても、姉が自室にこもって
話しかけづらい雰囲気があったかも
しれません。
こういう後悔が今書きながら思い出されます。
父も単身赴任ということで
家族との交流が薄い受験勉強期間でしたね。
晴れて大学は東京へ。
そうです。地方から合格したものは
大学敷地内の寮生活を送ることで、
寮に申込み、自分だけ一人暮らしして
東京にでることになりました。
ガリ勉の弊害がこの後いっぱいでてきます。
勉強だけ、1日8時間も集中できた。
ということは、
家事、身の回りのこと、
何も教わらずに、
寮生活がスタートしたのでした。
前途洋々のはずの大学生活で、
料理も、洗濯も、買い物も
全て自分がやることに
なったのです。
数か月たたず重度のホームシックになります。
寮の固定電話から、
月1万円超の電話代で
毎晩のように母に電話をする日々。
完璧に自分を見失っていました。
まだ摂食障害もありました。
外出の目的はサンドラッグ。
サンドラッグで大量の菓子パンを
購入して、食べては吐き
プラマイゼロとか思ったりしていました。
完全に、「どうして」とか
「なぜ」の理由がわかりません。
なぜなら、障害とつくぐらいなので
こういう説明のつかないエラーが
病気だったのです。
今では、よく自力で克服したな、
偉いなと思います。
今自分が復活を果たして、
こうしてフラットに
語れる状態になっています。
その当時の寮の友達が、
こうした病気のことも知って
敢えてパン食べ放題に連れて
いってくれて私以上に大量のパンを
おいしそうにほおばりながら
「食べることは悪いことではない」
「食べることは幸せなことなんだよ」
っていって寄り添ってくれたことも
じーんと来ます。
たくさんの人に支えられて
今の私に戻れたことは
一生忘れません。
待っていた寮生活。
東京の有名な大学に入れて、立派な母として、
誇り高かったのかもしれません。
だけど、何で大切なことを
教えてくれなかったんだ!
これが、ぶつけたい感情です。
私も私ですが、聞き入れる余裕がなかったのか、
言われてたけれど忘れていたのか。
寮生活、一人暮らしに必要なことを
高校生まで教えず。
教えたけど、聞かなかったとでも言ってくるのでしょうか。
昔の母はイライラしていることも多く、
教えるというより、怖く怒鳴って
投げやりな態度で教えてやったという
感じだったから、教えてほしいときには
嫌味たらたら。
そして、全然人が準備の体制になってないときに
勝手に教えて、「聞いていない」などとキレてきたりして
本当に、相性最悪でした。
私が悪かったのではない!!
本当に。今振り返っても
私は自分を見失い、
精神的には弱っていたし、
全然悪くなかった。
今でも、都合よく私が悪かったということに思い込んでいる
両親でしょう。だから絶縁という発想になるのです。
母が言ったこと、文句のように聞こえるばかりで、
フェンシングの盾を構えて「次は何を言ってくるだろう」
「どんな怒鳴られ方をするんだろう」
と対峙しての会話だったから、正直
「色々教えたはずだよ」と言われても、
全然頭に入ってなかったです。
母は昭和の専業主婦で
家族のために洗濯、家事、料理を担ってくれていました。
そこは、確かに感謝ですよね。
勉強だけしていたら、下着は誰が洗ったの?
机は誰が片付けたの?
誰がご飯を作ったの?
となりますから。
母は母で、自分の仕事に徹していたのでしょう。
肝心な子どもに教え、手伝いをさせる
ということはしなかったのです。
手伝おうとすると、どなられたり、
批判されたり、散々文句を言われて、
台所から追い出されてしまったのです。
毎回「ちがう!」
「そうじゃない」
などと怒鳴られて「手伝うよ」と言えませんよね。
そうかと思うとある時には
「娘たちは誰も手伝わない」
「私だけが家事をして大変だ」
と大声で愚痴をいって嫌味を叫んでいました。
暗にわからせようとする態度が
イチイチ私を傷つけました。
いやー。今書いていても最悪ですね。
一生合わないです。
絶縁でよかったです。
もう、二度と私の人生に介入しないで
もらいたいです。
最低な母親との関係でした。
今、私が自己肯定感が低く、
人からの見た目を異様に気にして
よく振舞ったり、
対外的にいい人として頑張ってしまうのは
全て、この振り回す母親に
影響を受けたものです。
こんなはちゃめちゃな母に
何とかわかってもらおうと、
子どもは頑張るんですね。
さっさと離れればよかったんです。
私自身が自分を出せなくなっていった
原因の根っこの深い部分の傷に
なっています。
これは、何かの形で癒されないといけない
深い私の傷です。
母は母で、家事=自分の存在価値が
奪われるようで怖かったのでしょうね。
今は世の中的にもジェンダーレスとか、
多様性とか主夫、主婦などでてきて
男性も積極的に家事育児を手伝う時代
ですから、昔の母の立場とは
違うと思います。
同情する気持ちもあります。
が、しかし恨む気持ちがまだだいぶ残っています。
あんな風に怒りながら伝えられても。
怖すぎて全然身体に伝わっていなかったよ。
入学後私に待っていたのは、
初対面の人との寮生活でした。
同じく地方出身で
最初はよそよそしくよい距離感で
よかったのですが…
入学3か月で彼女はうつ病を発症。
部屋でくらーくどんよりしてしまい
3か月にして、2人部屋の寮が
急に1人部屋になり、同室の人不在のまま、
私の摂食障害はますます
悪化してしまいました。
彼女をどうにもできなかった無力感、
そして、初めての一人暮らしでの孤独感、
私の部屋だけ、仲間がいない喪失感が
長期間大人になってもへばりついていたと
後で、ヒーリングセッションで判明します。
1、うつ病を患ったルームメートを救うことができなかった
2、他の人は、部屋に帰るとルームメートがいて交流を深められていた。
私だけ、一人がらんとベットが1つ空いた広い2人部屋で
母に長時間電話する生活から抜け出せなかった。
肝心な大学の方でも、そうです。
苦しい勉強の末、パラダイスを夢見ていた
私の心は、初回のゼミで打ち砕かれました。
私が入学した大学は、英文学科でした。
小説の購読、
英作文が宿題として出されたのです。
な、なんと!パラダイスできるはずだったのに!
しゅ、宿題がある?
ここで、心と身体にガラガラと
ヒビが入っていました。
前回の記事でも書きましたが、この時私は
燃え尽き症候群を発症していたと
思われます。スタバ以外の
机の前に座れなかった。
それなのに、ペンギンブックの宿題。
英作文。
慣れない、孤独な寮生活。
まだ完治していない摂食障害。
私、よく生きているなと思います。
本当に頑張ったよ。
ありがとう。
というより、死ぬ、もうだめだ、とか
考えられないぐらい暗い洞穴に落ちていたと
思います。
これでも、単位を落とさなかったのが
身内の、母の、
「他人に迷惑をかけてはいけない」
「単位を落とすなんて、ありえない」
「留年は恥ずかしい」
というこうであるべき、これが正しい、
という強制的な価値観であり、
現在の本来の私らしい「まあ、いいじゃない」
「なんで、だめなの?」
というものとは対照的な価値観です。
だから、無理をしてでも、留年なし
、中身はスカスカだけど形だけ4年間での
卒業という体裁を守りました。
ここでも、深堀をします。
偽の自分が
非常に本来の私を抑えていましたね。
だから、朝起き上がれないぐらい
もう病んでいたんだから。
(ルームメートがいないから、発見されない)
退学でもおかしくない状況だった。
そんなに母に電話するんだったら
休学という選択もあった。
実家にしばらく帰っていれば
よかったんです。
ここを、世の中の目に合わせて
休学という選択を取らない。
恥ずかしい、太った自分のまま、
学校に這っていく。
人からこそこそ言われていたかもしれない。
部屋に引きこもってもよかったのに。
無理に、平気を装って
学校に通う。
これを4年間自分の悲鳴を無視して
続けて、
母や家族に報告するために、
「無事4年間できっかり卒業しましたよ」
の報告をするために通ったようなものです。
だから、今何を学んだの?
ただ、4年で大学卒業の資格をとれましたよー
っという感じだったでしょうね。
その当時の私はすべて母に色々聞くという
パターンになっていたので。
自分の進路についても
「大学を卒業すると、正社員になれてお給料が高くもらえる」
と話を聞かされ、
大学を卒業したら、就職するんだーという
頭にすっかりなっていましたね。
中身は摂食障害、親のコントロール下に自分がいて
本来の自分じゃなかった。
自分の声が聞こえていなかった
ものだから、
普通の感覚でいったら、
大学に入学したら、
進路を意識して、
異文化コミュニケーション
国際経済学
アメリカ社会学など
そんなゼミがうちの大学では人気がありましたが、
人が怖い、人目を避けて、それか劣等感だったのか。
マニアックにマニアックに選んでいった結果が
「イギリス文学ゼミ孤高の詩人バイロン」
です。ゼミ6人!!
本当にね。
アメリカ英語
イギリス英語がありましたが、
そんな中、私はイギリス英語。
人気のコミュニケーション講座は
200人ぐらいいたのに、
6人の少数派のゼミを好んで選びました。
何でかわかりません。
だって、元気な
私じゃなかったんですね。
文学研究者にでもなりそうな研究テーマなのに、
卒業して一般企業に就職することを
目指すなんて。
大学生活があって、
その延長で企業に貢献してもらいたいと
企業は考えるのではないでしょうか。
企業に行き、面接で大学では何を学びましたか?
「はい、英語の大学で、
選考はイギリス文学の孤高の詩人バイロンです」って
マッチングがうまくいくわけないですよね。
そうなんです。
いつからか、母に何でも聞かないとわからない
自分の声が聞こえない、
本来の私で生きてこなかった私が、
(そうですよね。当然ですよ。摂食障害もあって、
朝ベットから起き上がれない状態だったのに
平静を装っていきていたんですよ。
健康な精神状態じゃなかったのに、
4年目でいきなり周囲の動きに影響されて
就職活動をするなんて。
無茶すぎた。
休んでよかった。
じっくり自分自身の進路を考えてもよかった。)
就職活動がうまくいかないという
さらなる悲劇を経験することになるのです。
後でわかることですが、
この「企業で働くんだ」
という固定観念は両親の固定観念です。
収入を得るという選択が
企業のお給料だという考え方ですね。
今冷静に周りを見渡すと、
いっぱい進路何てありましたよね。
無理に就職しないで、大学院で研究員をしていたら
ちがう世界があったかもしれません。
クリエイターは?
表現者は?
むしろ私の道はこっちだったんです。
でも、実際選んだのが一般企業への
就職。これは完全に親の意向に
従ったものです。
これも最近になって気づいたことだし、
私が長年企業で働くことに
こだわって上手くいかなくて苦しんできたけれど
全然私の使命ではない働き方
であることがわかったのです。
奥深いです。
つづく。
身体ひーひーの状態で
這うように寮から大学
に通っていましたね。
見た目も、痩せ状態から
いきなり太って、劣等感が
この上なかったです。
太ると、「いや、太ってはいけない」
とサプリで痩せようとしたり、
サプリも学生には高いお金で
バイトをして、食べる、太る、
太らないようにサプリを飲む、出す
みたいな矛盾がありました。
カプサイシン入りのサプリを
買ったときには、燃焼するように
地元体育館のトレーニングマシンで
自転車をこいだりしていました。
それはそれで、一人楽しんでいたのかも
しれません。
寮に帰った時に、台所やトイレやお風呂で
会う寮仲間があった状態で、
完全孤立ではなく、顔見知りはいた、
という状態にありました。
学習面や英語の事に関しては、
今になっても「もう一回大学生やり直したい」
と未練になっています。
寮に住んでいたことで、完全に孤立ではなく
細い光がありましたね。
この仲間とは自分が一番弱っていた時に
出会っているので20年経った今でも家族のように
交流があります。
重いテーマとなりましたが、
どこから自分と乖離していったのかを
掘り下げることは、本来の自分らしさを取り戻すのに
絶対必要なことです。
自分の場合には、
絶対的だった家族、
特に母の価値観、母の期待に沿うことに
異常にとらわれてしまっていました。
母がそうしてコントロールしたり、干渉
を常にしてきていたことなのか、
私がそうするのが、一番平和で一番いいと思い込んでいたのか。
とにかく平和で、穏やかな毎日を望んでいたのに、
この親といるときは、いつも
否定され、ダメといわれ、理由もなく怒られました。
そんな母の顔色をうかがうかのように、
進路決定の重要な局面でなんでもかんでも
母に聞くパターンが変えられませんでした。
ファッションも、
メイクも。
どう思う?
どうするべき?
全部選択の主導権を
母に渡していました。
そうすることで、平和な状態が
保たれるとでも思っていたのでしょうね。
母がいつでも怒っていて怖かったんだ。
本当は。
父は父で、営業マンという仕事柄
接待やゴルフ、自分のことだけで楽しんでいるように
見えました。私の人生、母との関係、
何度もし烈な母娘喧嘩をキャンキャン
していたのに。
我関せずな態度。
母をワンオペ状態にして、
母が常にイライラ。
そのイライラや不満を
父にぶつけないで私たち娘に
八つ当たり。
私は、ずーっとサンドバックに
させられていたんです。
お金に不自由のない環境にあったことは
感謝しますが、今でいったら精神的な虐待
に相当します。
だんだんもやがかってきたのが
大人になって、特に今年になって
澄み渡ってきた感じなのです。
父はどちらかというと
「俺は仕事だから」という感じなのか
関心がないように見え、
様々な行事にも自分だけ文庫本をもって
いくような、ある意味「だったら来なくていいよ」、
的な父親だったらしい。
いつも母が恨み節をはいていました。
孫が産まれた時に、急に
多分また母の計画で、
おじいちゃんとして何とか
私たち娘家族と交流させようと
いう意図があったのか、
車に乗せてあげる、
実家をいつでも来ていい場所にしてあげる
ということで、なぜか
私たち家族が、週末に実家を
訪れたり、孫をつれていくという
パターンが増えました。
今考えると、母に対する昔の
完了していないどうして、こうだったのか、
どうしてこうしてくれなかったのかという
思いが消化していないのに、
孫の存在で中和するかのように、
頻繁に顔を見せにいく状態になっていて、
いつしかすごい疲れていました。
夫は快く一緒にいってくれましたが、
喧嘩や嫌味をいわれることが
続いていました。
もやもやしながらも、
孫には甘いので
息子たちが「ばあばの家に行きたい」
といって、「(私が来たかったではないけれど、)子どもが
いきたいっていっています」
とLINEをして、連れていく
という生活がすばらく続いていました。
近所に住んでいて、それも
環境的には気持ち悪かったです。
そうです。
自分軸の観点から言うと
私は行きたいわけではなかったのです。
どちらかといえば、孫だけ実家において
私は家に帰って私の家のことだけやりたかった。
でも、そうすると
母は嫌がった。
孫の顔はみたいけど、孫のお世話は
したくなかった。
最後の方は孫を連れて行っても自分は
スマホを見せて昼寝、なんてこともあった。
こっちが不満をつたえようとすれば
「私だって疲れている」だの
「あたまが痛い」
だの言って言い訳をした。
つねに肩の後ろに母の顔が浮かんで、
共依存状態が続いてしまった。
それも苦しかった。
こどもに
勝手に甘いものやジュースを与え、
やめてほしいといえなかったし、
こういうの、あげていいかと
聞いてくれなかった。
勝手に介入してきた。
言いたいことがあったけど、いうと
逆切れするし、
いつも「ああしてやった」「こうしてやった」
というのが口癖だったから、
私からは何も言えなかった。
今なら、言えます。
親であっても、こういう自分らしくいられない
環境からは離れて正解だったのです。
私の場合は、危ない運転の末
「絶縁だ!」という父のどなり声とともに
全て終了しました。
私は私で、嫌いだし気まずいけれど孫を連れて
いっぱい言って顔を見せてやった。
親孝行だろう。
と思うし、父は父で
母に毎日のように私からLINEがきて
(母がそう仕向けていたのかも)
孫がきたら車を運転させられて
孫にねだられて家まで送ってー
あれかってーこれかいたいー
と言われて限界だったのでしょうね。
なんだろう、この親。
いや、親じゃないな。
クレイジーだ。
普通の感覚だとショックだったり
「どうして?」「ひどい!」
などなるのかな。
今、違います。
ああ、終わった。
私が気をつかって保つ家族関係が
終わったんだ。
解放された。
もう、私が私でいていいんだ。
そんなメッセージとして受け取りました。
深い深い気づきがあったのですが、
私が好きなことを封印してまで
厳しいガリ勉の末有名な大学に進学したのは、
進路を決定する段階で
母に主導権を渡してしまい、
というかわからないぐらい他人軸で生きて
きていたので、
親や、親戚が「こんな大学素敵よー」
というようなところに急に
進路を設定して猛勉強をして
周りが見えなくなっていた。
こうして、本来の道じゃない
親の喜ぶ道に進んだ結果は、
いいことももちろんあった、
新しい出会いもあったけれど
いつまでも自分を裏切っている。
私の魂は、いつでも「それでいいの?」
「え?あの好きなことは?やめちゃうの?」
と語りかけていたのに。
自分の声がもはや聞こえなかった。
土台が不安定なまま、自信もなく
自分の選択に自信が持てない。
親軸の道を歩いているんだから、
親に何でも聞いてしまう。
自分に聞くんでしょう?本当は。
だから、夫に、母に、周りに
いつも聞いてしまう道の上にいたんだ。
40歳になってもいつまでも
母に聞いていたから。
そういう意味での自分の道を
行きなさいという父からの絶縁という
形の激励メッセージだったのかもしれないと
今少しずつ思っています。
親から絶縁といわれて、初めてビシーっと
自分に縦の光の筋が降りてきた感じというか。
これからの人生はなんでも
自分に聞いていくんだと
決めました。
1111の日に。
この記事をここまで読んでくださっている方で
なんかわからないけれどめちゃくちゃ
厳しい環境に身を置かれている方がいたら、
今すぐ逃げてください。
離れていいんです。
勇気を出してほしいです。