苦しい状況を作った英語に背を向けたけど、悪いのは英語じゃなかった話。

今日も、とってもいい天気。
毛布をお洗濯して干しました。
多分、今日は取り込む頃に乾くでしょう。
寒くなってくると段々乾かなくなって
部屋干しが増えるから、今のうちに
大物関係をきれいに清潔にしようと
思っています。

さて今日は、私の
英語に対するひねくれた想いについてです。

今も、英語の資格取得に関しては
もう動き出せません。

教材は買うんですけれどね。

就職超氷河期で、
自らが本当の自分の意志で生きていなかった
めちゃくちゃ他人軸状態の私が、
親の意向に沿って、いや、世の中の流れに沿って
就職した先での話です。

前回の記事では、うそというほど
嫌なことばかり起きていた
職場だったにも関わらず
抜け出す、辞めるという選択肢を
思いつけず、周りの期待に応えようとして
5年半も耐え続けました。

今正常になって振り返ると最悪な
社員の扱いをされました。
(自分を大切にしてこなかった自分に原因があるんでしょうけれどね。
それに気づく前は恨み節がずーっと抜けませんでした。)

この事のせいで、
自己肯定感は長期間さがったまま。
パフォーマンスを発揮できず、
働くことも諦め、
自らをかごの中に閉じ込めて
暮らしていましたので、
この過去と向き合うことは
私にとって必須です。

うーん、辛い。
先日下書きを保存したのですが、
なかなか根深いと思います。

昨日は夢をみてうなされました。
2度と経験したくない。

そんなことを思って
本日もう一回記事と
向き合っています。


退職した前職では、
最初の職場が人事部でした。

業務ローテーションの
方針で、
採用をやり、給料をやり。
この給料チームの時には、
今振り返ると、精神的に超弱っていたのです。

だから、細かい計算ミスの連発で、
信用がだだ下がりでした。
伝票の間違えで、経理から
目を付けられ、
経理から上司に指摘がいくのです。
結果は、、上司の信用を失い、
自分が小さく小さくなっていった。

(職場が、この会社員自体が合っていない
働き方だったので、そこに気づいて逃げればよかったんですけどね。)

合わない環境で、
自分の能力がないと自分を責めて、
私が努力すれば、
私が気を付ければ、
と鞭を打って残り続けました。

これは、先の見えないトンネルだったり
人生の迷路に迷い込んでいましたね。

今は自分を取り戻したわけですから、
本当に大切な気づきを得るのにここまで
時間がかかりました。

上の人達からしたら、
給料グループなのに
計算ミスばっかりしている社員は
外に出したい訳です。

採用試験の時とは違う
新しい人事部長が思いついたかのように
私を個室に呼びました。

あなたは、英文学科だよね。
ってことは英語できるよね。

無茶な話です。
急に英語を使わない部署に配属されていたから
英語は勉強していませんでした。
英文学科だよね、といわれて
だから、当然英文できるはずだ、

人員補充を希望していた部署に
異動。

この異動先は、
広告宣伝部でした。

2年人事から、2年広告宣伝部。
この経歴も、
転職活動の時には
非常に都合がわるい。

なんの職歴の足しにもならなかった。

補足をすると、もし転職時に
人事経験あります、と言えたとしたら、
給与グループ、採用グループ
最後に人の評価などをする人事グループの
経歴さえつめていれば
人事経験ありで転職で動けたのです。

中途半端に給与と採用だけ経験させて
出されてしまったものだから。
本当に、何も社員を考えていない
当時の人事部長(すぐ変更された)
でしたね。

散々失敗の上、転職活動を放棄した今。
晴れ晴れしています。
今何をいっても、私には必要のない
職歴だったけれど、
後々この道も、まったく私にとっては
人事部長に恨みを内心恨みを持ち続けた
異動の通達でしたね。
いまだから、もう何にも感情はないけれど。

この時の課長、部長、係長の
不合理な扱いも、一生忘れません。

ただ、この3名が当時の慣習で
結婚式のアルバムにばっちり写っています。
こいつらのせいで、もう結婚式のアルバムを
開きたくない笑。

そうです、この部長は私の退職が
決まった時にいつまでも、後任を決めず、
あげくのはてに、
高齢の常勤嘱託員を
最後に引き継ぎ先に任命し、
この高齢の女性の発言が、
私の気分をものすごい下げました。

なんでもない風に装っていますが、
必要な経験だったとは言え、
まだこの人たちに私は怒っています。

これも、私にはまったく関係のないことですが、
当時の人事部長は
「英語のできる宣伝部員要因を1名人員補充してほしい」
と要望を受け、採用活動で動いていたようなのです。

派遣社員でも、キャリア採用でも
見つからなかったらしい。

困っています、困っています。

と嘆願され、ちょうど
ミスばっかりしていた英文学科卒業の
自分の部署にいた私を、
英文学科卒というだけで、そちらに回したとのことでした。

宣伝できる人員というのは、
イラストレーターや、インデザインといった
作画や編集のできる社員
かつ英語が堪能な社員。

です。

こういうスキル系の社員は
当時の会社では派遣会社に人選をお願いしたり、
キャリア採用枠で経験者を雇うものだったのです。

そこに、未経験の私が異動させられたことで、
異動先でまさかの冷遇でした。

部長も部長なら、
Nという名前の課長。
私に面とむかって、

「英語だけできてもね。
本当はイラストレータとか、インデザインとか
使える人が欲しかった」

とか言われたりね。
そんなん、知ったことか。

でも真に受けちゃっていましたね。
ちくっと自分に自分で針を刺して。
まったく。

今振り返るとハンカチを噛み破りたいほど
悔しい発言ですが、
自分が非常に弱っていた上に、
過敏性腸症候群も発症していたぐらいの
ギリギリの精神状況で
言われっぱなしでした。

この嫌味な発言や
教えない、教えてやっている、仕事渡さない、渡せない。
というこの扱いは、
後々まで私を
自信喪失や、ボディーブローのように
後からじわじわと傷つけました。

今、本当に訴えられるぐらいの
ひどい相当なことを経験しました。

耐えた私が、今本当にすごい。
よく頑張ったよね。
辛かったね。
もう、こんな思いしなくていいよね。

研修にはいかせてもらったものの、
そんな数日の研修で
デザインスキルなんて身に付くわけないのです。

そうです。人事部長の采配ミスです。
案の定、彼の人事決定は
総合的に問題があったということで2年で
人事部長を辞めさせられていました。

その彼が人事部長だった2年の間に
異動させられた私を
もとに戻すとか、そういうケアはされなかったので。

出された、苦しんだ。冷遇された。
疎まれた。で終わりました。

それなのに、律儀に年賀状とか
出していましたね。

ほんっとうに、弱っていたんだな。
自分のことを自分で守れないぐらい。
5年半も残ったんだから。

もうこれからは自分にとって大切な
道を間違えないよ。

最後の方はN課長は、
チームの中で私にだけ
デザインの仕事を回さない。

Nが依頼を振り分け、
このデザインは誰に、
と振り分けていく奴だったのに、
私が暇になって
仕事ありませんか、といった
時に、笑いながらバカにして
「仕事なんて、自分で見つけるものだよ」

とかいって、私だけのけ者にした。
最後の方は、会社に行って文房具を
発注する総務のような役割を自ら
かってでて、自分を保っていました。

(この時も、早くやめろよ、離れろよって
お知らせがきていたにも関わらず、
気づかずに堪えていました。)

これで、暇になった分、
自らのスキルを向上しようとして
英会話のアフタースクール
に通って、「私は、時間があるから
こういうことできるんだもん。」
って意地を張って過ごしていました。

英文学科だから、
英語は得意という
プライドをかざして。

デザインの仕事がもらえない
という
暇でみじめで苦しい状況を
カバーしていたのでしょう。

そして、海外駐在員の妻として
退職、海外転勤。

ここから、自分を保つために
武器としてかなり時間をかけて
来た英語に対して、恨むように
なってしまったのです。

英語のカタログ作成でも、また
苦しめられました。
専門学校卒の、
おばちゃん社員から書いた英文のダメ出しを
ひどく受けたのです。

このおばちゃんも、また一人でこの業務を
誇りをもって長年やってきた人でした。

英文カタログといえば、この人

的な立場を守りたかったのでしょうね。

なんか、似てるぞ。似てるぞ。
人事の時のヒステリー女に。

そう、人事の時もそうでした。

採用といえば、この人と
誇りをもっていたところに、
追い出されたうえ、新入社員が
入ってきた!!

ここに危機を感じた女たちからの
引きずり下ろしに巻き込まれていたんですね。

この英文カタログ女からも散々でしたね。
まず、ほほえみや友好的な態度がまったくない。

カタログ女:「まず書いて。」

書いて出すと、

カタログ女:「だめだめ!カタログの英語ってこういうものよ!」

今なら言ってやりたいです。

私が大学時代やってきた英語は
文学作品です。長文で濃いものです。
いわゆる文章です。

一方、職場で求められた英語は
技術英語です。
技術英語は専門的な知識やコツが必要です。

これも、英文学科だからできるだろう、と
言うことではないです。
だから、本当だったら
その英文カタログ女が、指導をするべきだった。

短く、シンプルに集約する。

たとえば、This product is easy to use.
だったら、カタログ英語だったら
easy to use

だけが、カタログに載るんです。

こんなバックグラウンドも知らずにいきなり
英語を書かされ、書いた後にバカにされ、
けちょんけちょんにけなされ。

これでも、耐えて自分に欠点を見出し、
改善しようと努力をしていましたね。

こういうところ、本当に他人軸時代の私は、
他人の顔色を窺い、
他人の期待に沿うように行動して、
努力家だったよね。
でも、間違った方向の努力だよね。

こういうどうしようもないカタログ女の
存在も書くだけで胸糞悪く、思い出され、
一生忘れない、許せない、今言い返したい
とは思いますけれど、

それよりなにより、
耐えてしまったことが、
「あなたの道、違うよ」
ってメッセージがずーっと来て
いたんですよね。

親のため。
体裁のため。
世間体?
とにかく自分のためじゃなく、
何かのために残り続けました。

これが、「違うよ」「間違ってる」
って自分の守護の存在から
必死のメッセージがいっぱい、いっぱい
つまり現実世界では嫌なこと、苦しいこと、
悲しいこと、悔しいことが
いっぱいいっぱい発生していました。

こうして、私は英語に背中を向け、
「あんなに勉強してきた英語、全然だめだった」
って設定をしてしまいました。
英語が私を傷つけた。

他人軸だったから、そのカタログ女の評価をそのまま
自分の評価として受け取っていただけです。

これは、今になって気づけたことです。

色々な人の醜い思惑がありました。

そのカタログ女は、職場結婚で
自宅のローンを返済したり、
こどもの海外留学費用を稼ぐという
明確な意図があったのです。
新人の存在で仕事がなくなると
危機を感じたのでしょうね。

足、引っ張りです。

こういうことに、弱っていた
若い20代の社員は格好のターゲットですよ。

結局追い込まれて、ダメ出しの末
退職に至ったわけです。
主人に聞くと、まだこのカタログ女は
働いているとか。

こういう人をまだ雇っている会社も、
本当に私を傷つける場所だったなとは
思いますが、
そうです。
この会社こそ、
私の生活を支える大事な
お金の供給元様ですので、
会社が悪い、
カタログ女が悪い、
英語が悪い
のではなかった。

今でも、英語をできそうな
感じで教材や英検受けようかな?
TOEIC受けようかな?と
教材を買ったりしちゃいがちですが、
やっぱりもう楽しくないですね。
今は。苦しいとしか思えなく
なっちゃったので。

スキルとか、
かけた時間に対して、
私には合う仕事がないんだもん。

どん底状態、英語に背を向ける時代は、
また自分を責める固定観念と
重なってしばらくどーんと重くありました。

「英文学科卒なのに、TOEICは795点、
英検は2級。資格としても使えない。」

(実は、数年前から息子と一緒に息子の幼児英語を通して
私の英語に対する考え方を楽しい設定に
修正中です。未来は明るいと思います。)

自分の今進んできている道が
違うよ!思い出して!
と自分を守る見えない存在から
メッセージが来ていたのです。

駐在先は中国でしたが、
中国は英語が通じませんでした。
すくなくとも上海万博の頃の
中国はそうです。
田舎っぽさものこっていて、
道には「唾を吐くな。」
という看板が至るところに
あったり、ローカルっぽい部分も
いっぱいありました。

中国の街の中心の
語学学校に通うことになり、
英語から離れて、そこから数年は
中国語漬物の日々を送りました。

英語はもういいや。
あんなに勉強をしたのに。
あんたの英語、全然使えないって言われて
恥ずかしかった。
卑屈だった。
自信を無くした。

だったら、中国語イケイケに
なっちゃうわ!
と逆に燃えて、
最後の頃は、家庭教師、
語学学校2つ掛け持ち、
めちゃくちゃ中国語漬けになって、
プロ級になっていました。

英語なんか使わなくても、
とっても楽しかった。
中国生活を心の底からエンジョイしていました。

服市場では、裏地付きの
トレンチコートを最低限値切って
オーダーし、破格の4,500円相当で
作ってもらった。
嫌がるほどの値引き交渉の後は、
満足のいくコートを作ってくれたお礼に、
友達を3人連れて行って
発注してあげたり。

上海のカルフールの1階の郵便局で
日本人とわかってわざと早口で
金額をごまかそうとした
お姉ちゃん。

(本当に、こういうこと日常的にあります。笑
ザ・中国。ごまかした小さな小銭はポケットマネーにでも
しているのだ、とか。聞いたことありましたし。)

その早口で言われた値段を
○○元〇〇毛まで、完璧に聞き取って、
定価でバチっと窓口に
定額で出し、爽快感を感じましたね。

相手の目を見てにやっと
笑ってあげました。

日本人の人たちと一緒に
中国茶を学んだりして、浙江大学に
いってお茶ソムリエ=評茶員の
資格をとったこともあったし、
お茶畑の旅行なども、
翻訳を介せず、直接の
やり取りを
楽しみました。

英語のつらい記憶を見ないようにするために、
中国語では貪欲に学びをすすめ、極めました。

日本に帰国は、麹町の翻訳学校に通いながら、
お茶の水の、小島よしおぴーやの
お父さんが経営されている語学学校に
通い、北京出身の中国語先生と
お茶の水でマンツーマンで
レッスンを受けたりしていました。

数回、落ちたりはしたものの
中国語検定準一級の合格を勝ち取りました。

英語での仕事は散々だったから、
中国語検定準一級の資格をもって、
中国語で仕事を得ようという
アイディアだったのです。

ところが難しい資格を持っていても、
仕事は見つかりませんでした。

使わないうちに、中国語検定準1級の
有効期限は切れました。

頑張っても、報われない。
あれだけ頑張ったのに、社会の
役に立てない。
自分を無力に思うむなしい気持ちが
また、経験しました。

日本では英語が主流の
ところがありましたね。

まず、中国語の求人が少ない。
もしくは、中国語なら
中国人に仕事が回るという現実。

この時も履歴書に苦しめられます。
前職が
人事分に
広告宣伝
ですから。

人事5年半だったら人事で
仕事決まったかもしれなかったのに。

採用と給与だけの人事課2年、
宣伝課2年って本当に採用側から
私の経歴を見ても、雇うのに中途半端。

だったら、この経験は捨てても
語学の実力で、何か仕事をと思っていても、
派遣会社では、
「へえ、中国語準一級ですか。
ところで、TOEICは何点ですか?」
と。

もう英語はやらないってきめたのに、
何で英語の事ばかり聞かれるのか。

こうして、最後にはハローワークの
窓口にいき、
3社ぐらい紹介してもらいました。

1つは貿易会社。
可愛らしい輸入雑貨の会社ですが、
中国から輸入するのに
貿易事務です。

1か月で退職に至ります。

変な会社でした。

たしかに、貿易事務で一回ぐらい中国に
中国語で電話をする仕事がありました。

すると、そのエルダー社員さんから
ある日ランチの時に、
こんなことを言われます。

「あのね、Nさん。
私には障害を抱えた弟がいるのよ。
だからね、弟をささえるために、
私が稼がないといけない。
あなたに活躍されると、
私の立場がなくなってしまうの」

ん?なんかおなじだぞ。同じだぞ。
流れが。
人事女、英文カタログ女そして、
可愛そうなこの先輩社員。

「あなたに活躍されると都合が悪い」って
また言われた。

私は語学が好きで、1日8時間勉強をして
英文学科をでて、英語を活かせる仕事を
探したのに、職場の人間関係で苦しみ、
肝心な英語はだめ出しされ、
仕事では英語を使えない。
駐在員となり中国をプロ級に
身に着けて、中国語を今度は活かせる
仕事を得たくてハローワークから
紹介されてここにいるのに。

この貿易会社では英語の
仕事もありました。

社長、副社長に、
若いのに美人なタレントみたいな社員。
私は瓶のラベルの英文翻訳をタレント社員から
依頼されました。
ちなみに、この社員は上司でもなんでも
ありません。

私に英語翻訳をさせると
さっと、成果の部分だけ
取り上げ副社長に
自分がまとめました、と
言わんばかりに彼女だけが
評価をもらうのです。

ここにも私の違和感が。

いや、これは
私の翻訳実績
ですよね。

と。あなたの下に置かれるものでも
ないし、あなたを助ける
義理もなにもないのに。
語学力の安売りはできないよ。

このかわいそうな介護弟さんをかかえる先輩社員、
おいしいどこ取りのタレント社員。
社長と副社長の不適切な関係で、
副社長がなぜか鎌倉から都内に通っており、
副社長の交通費を会社が払っている。
こんな不正がやっぱ、変な会社だなと
思って、やめました。笑

中国という国は自分軸の方が
たくさん住んでいるので、
中国での生活は
だいぶ私の人生に新しい価値観を
いれる転機になりましたね。
みんな、「自分がこうしたい」「こうありたい」
という欲に忠実な人たちなんです。

なんで、日本では「えー信じられない」
なんで、ディズニーの列に割り込むの?
とか思われがちですが、
ずるをしてでも、
早くアトラクションに乗りたいから
割り込み行動が発動するのです笑

日本では自然と相手の望むように
自分が行動を変えたり、
何か常にサービスしてあげたりしますよね。

脱線しましたが、
こういう「入社して、すぐ離職する」
という出来事が起きると、
昔の親の価値観、固定観念が段々通用しない
現実になってきます。
合わせなきゃと思っても合わなくなってきた。

「5年は働かないと信用を失うよ」
「我慢して残りなさい」
ということが通用しない。

変な会社だったら、不合理な会社だったら
私が中国語を、英語を使うたびに
「あなたに活躍されないように」
という念がとんできたり、
「よし、この英語の部分利用してやろう」って
そんなずるい人が傍にいたら。
そんな環境だったらさすがに
自分を守るために逃げないと。

はい、貿易会社辞めた。次!

ハローワークにいく。
「中国語活かしたいです。」

今度は中国技能実習生のサポートの会社。
入管書類、ビザの手続きの書類作成と
就業前の研修のサポート。寮にいき
中国人の彼らが日本で生活する面での
手助け。(ごみの分別、生活のルール)
名前などで中国語を書くので
中国語活かせたとは言えます。

ここでも、ちょっと変な現象が。
一人の中国人の可愛い同僚なんだけど、
日本人と結婚して日本語堪能な女性が
専務とデキているのか?と疑うほど
めちゃくちゃ仲が良いので、
彼女がめちゃくちゃ中心で
輝いて仕事やってる。
私はどう逆立ちしても
中国語話す仕事は回ってこない。
研修にいっても薄ら笑いをしているだけ。
業務の割り当てが、不公平なんじゃないか。
でも、まあ小さな組織だし。
彼女のサポート役みたいな業務だったのか?
語学の4年生大学を卒業して?
何やっているの?私。
就職超氷河期を今更恨んだりもするし、
流れ着いた先が、こんな
変な仕事なんて。

これでは、真の意味で
語学力を活かしているとは
言えない。

この職場でも
お父さんと二人暮らしをされていて、
家庭があまりうまくいっていなかった
同僚の女社員が、
私が新しく入ったことで、
仕事量が減ってしまい、
本当は残業することで、
早く家に帰らなくて済むと思っていたのに、
私がいたら、早く帰ることになって困るから、
私とその中国人の子で
一緒に作った入管書類(様式ごとにまとめるから分厚い書類)から、
1枚抜いて私のミスのようにして、
困らせることをする事件があった。

上司が私のミスを指摘した時、
中国人の子が「いや、私がダブルチェックして一緒に用意
したんだからミス何てありえない。」
と叫び、その同僚社員の机の引き出しを開けたところ
ぺらーん!と私が作成した書類の束から抜き出した
不正の1枚を発見!!
一同絶句…。

彼女は気まずかったものの
本当に居場所がなくなるとのことで、
そのまま組織には残ることに。

私は残っても残らなくてもどっちでも
よかったぐらい日が浅かったので
やっぱり、私が離れることを決意。

こうして1年も経たず退職。

退職の時に、当時の
常務さんから
「(あんなあからさまな嫌がらせをする社員がいるような)
こんな職場で大変申し訳ありませんでした」
と逆にギフトと花束を渡される。

自己都合退職にしては斬新な体験をしました。
たしかに。

この経験を通して、
「5年ぐらいは耐えるべきだ」
「職場を転々としてはいけない」
というのは家庭の誤った固定観念であり、
私を縛るものだった。
親の意向にしたがってしまう
環境におかれていた。

もうこの経験から
就職活動的な、職を得る活動は
合っていないと自覚。

ふっきれましたね。

いやぁでも
宇宙の采配とかいって
スピリチュアルな視点がなかった頃に体験した
ことだったので。
ひどい、落ち込むというよりは、
やっぱ動こうとするとだめなんだな、私は。
ここまでくると、私の原因じゃないなと
思うようになって笑えてきた
わけです。

以降もうなんでも有だと、
大胆になりました。
ハローワークはもうだめ。
頼れない。
自力で探していこうと、
中国語で求人を探し、自分で活動をして、
麻布十番の
ベンチャー企業の素敵な女社長さんに直談判して、
気に入ってもらえました。

意外と行動力ありますね。

中国語のレポートを翻訳して
提出するというお仕事をいただきました。
祝。

安定した給料が欲しいのではなく、
がんばった語学力を活かして
貢献したかったので、
1文字いくらだったかなど
覚えていないほどです。

金銭面よりも、
自分で行動の末、ゲットした
お仕事的な在宅ワークに、
充実していました。

しかし、長くは続かず、
次の海外転勤が決まります。

国が、中国じゃなかったので、
また、その駐在先で
別の言語をやっていくことになるので、

中国語の翻訳レポートは
現実的に続けられそうになかったです。

また、強制終了と言わんばかりに、
妊娠と重なり。
妊娠していてもワーク自体は
できたのですが、入院出産になったことで、
社長に迷惑をかけてしまうということで
泣く泣く辞退のご連絡をして
次の駐在先へ引っ越しました。

今振り返ることで気づけることなのですが、

この「役に立ちたい」
「活かしたい」
「がんばっていたこと」

は、本当の私が望んだことだったのか。

というのが就活で
うまくいかないポイントです。

やはりまだ人生の迷路におっこちていて、
そのなかでの「働きたい」
「就活」
「うまくいかず、続かない」
「トラブルが起きて辞める」
のパターンを繰り返して
完全に行動停止。

長年の「なぜ私は働こうと思っているのに、
行った先で変な人、変なことに
あって、最終的にはプッツンして
やめてしまう。または、円満な人に囲まれて
最高だなと思っていても、仕事から離れる
ことになるいかないのか」
というテーマ。

このころから魂とか使命とか
そういう観点も参考にと
取り入れ始めたのです。

全てが、他人軸の生き方で進んできた
道での出来事です。

よく宇宙の采配とは言いますが。

自分で選んできた
道。

実は、ちゃんとブレブレの私にも、
自分軸で「これやりたい」
と幼いころに掴んだもの。
私が他人軸の時に、
それは、趣味だからと
横に追いやったもの。

それが、細ーい糸のように
かろうじて「まってよぉ」
「これだよ、これ!これをずっとやってきていたじゃない」
「思い出してよー」

ってしがみついていたものが
傍に、いたことに気づきました。

ここに、もう一回気づいた時!
自分のなかにぶわーっと
何とも言えない情熱の風が。

あの、『魔女の宅急便』で
キキがほうきで独り立ちするときに
地面からの風を
浴びるかのように、
自分の中に炎が灯ったという
表現が合っているように思います。

P.S.
他人軸で親がこう思うかな。
夫が、味方でいてくれるかな。
誰かが、わかってくれるかな。
怖い先輩が仲良くしてくれるかな。
認めてくれない上司が、認めてくれるかな。

こういう期待を抱きながら
生きてきた40歳までの私。

ぜーんぜんうまくいかなかったです。

結果は、誰もわかってくれない。
立派に企業で働いている大学時代の
友人とも比べてしまった。
私だけ、企業で働いていない。
劣等感。

本当に大切だった活動があったのですが、
この活動は、長くなって収集つかないので、
別の記事にします。

「それは趣味だから」と
横に置いてみたり。
育児中にできることじゃない
とほんのすこししか時間を使わない
ことをやっていましたね。
今年になって、思いっきり
メイン活動にシフトしましたが、
結果はやっぱり
思った通りで、本当にあった活動の場合は
苦労することもなく、全て整い順調ですね。

気丈にふるまっていますが、
封印していた英語に対する思いや、
前職での様々な迷路のような
体験をここまで掘り下げるの
辛かったです。

会社員時代の話、
いっぱい頑張って身に着けた英語力や
中国語力を仕事という形でいかせなくて
無駄だったと思っていたこと。

努力しても報われないじゃんと
長年背中を向けて、英語から逃げました。

本当は英語好きだったのに。

だから、それは、他人軸で進んできた
「得意の英語スキルを使って、社会に貢献しよう」
という他人の目を気にした
偽の優等生キャラを演じた自分が
「これで、社会的に認められるはずだろう」
と信じて掴んできた藁だったから。

残酷にも見事にジョキーンと
切られました。

観念し、
見るのも辛くなった
英語に関するあらゆる教材を全捨て
しました。

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