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PBLの会社、8年間のしっぱい。目指したのは「子どもが、"好き"から社会につながる教室」。

COLEYO代表の川村です。改めまして弊社、今年も採用やってます。
今年から、プロマネ(事業開発)の方の採用をスタート中です。
(ありがたいことに、カジュアル面談希望や面接応募もいただいてます!嬉しい!でも、まだまだ募集中なので、興味のある方はこちらから。)

採用って、会社の未来を描いているからこそ、積極的にやれるものだと思っていて、こうして毎年積極的に採用ができるようになったことが、COLEYOにとっては、すごくポジティブな進化だな、と改めて思っています。

僕が前職を1年で辞めて、起業して、小さな教室でジリ貧生活していたころとは比べ物にならないくらい、生徒が増えて、仲間が増えて、事業が時間をかけて大きくなって、また生徒が増えて。まだまだこれで満足!しているわけではないけど、あの頃より、すごくいいサイクルに入っているような気がします。

でも、改めて、採用候補者の方からも、よく聞かれる質問として「なんで起業したの?」「どうしてPBLでビジネスができてるの?事業化ってどうやったの?」ということを聞かれるようになりました。

なので、今回は改めて、ここまでのCOLEYOの成長の(そしてその裏側にあるたくさんのしっぱいの)軌跡と、あと、ここから広げていくためのビジョンをちょっとだけまとめて、お話をしておこうかと思います。まとめたらめっちゃ長くなったので、2回くらいに分けて、みなさんにお届けします。

教育業界の人も、そうでない人も、COLEYOにこれで興味を持つ方が増えてくれるといいなと思ってます!


❶ 「子どもが”好きなことだけ”やる教室!」と勢いで会社をやめた「川村、塾をはじめるってよ」期

そもそも、COLEYOは最初から法人としていたわけではなく、もともとは8年前にはじめた小さな教室がスタートになっています。新卒で入ったリクルートを辞めて、学生生活を過ごした京都に戻り、PBL専門の教室を始めたのが最初の最初です。

教室をはじめたきっかけは色々あるのですが、最初に思っていたことは「学力と運動以外に、もっと子どもの”好き”や”得意”を育てるような塾があってもいいのにな」という自分自身の思い。そしてこれは、ずっと僕自身が落ちこぼれだった、と感じていた原体験にひも付きます。

僕は、北海道の田舎の生まれで、父が精神科医で、10個上の兄も医者、8個上の姉も保健師、親戚にも医者がたくさん…という、医療従事者一家の中に生まれました。そんなわけで僕の頭の中では、医者になることが当然だと思いこんでいました。でも、僕は、兄弟の中では勉強ができなかった。当然のように公立の医学部を受けて、落ちてしまって。(惜しかったわけでもなんでもなく、順当に落ちました!笑)
僕自身は、僕のことを、落ちこぼれなんだ、と思ってました。能力云々もあるけれど、たぶん勉強がそんなに好きじゃなかったし、興味が持てなかった。
勉強がダメなら運動で!とも思いましたが、こっちはなおのこと落ちこぼれ。小中高と膨大な時間をバスケに時間を捧げましたが、4つ下の弟が、ずっとキャプテンでエースをはり、地区大会では当然優勝、北海道大会でも表彰されたりして。「え、こんな身近なところで追い抜かされるの…」と結構ショックでした(笑)

北海道の浦河という町の大家族。ちびっこに囲まれながら育ちました。

一方で、僕は、中学生のときはインターネットにのめり込んで、パソコンを使って、お商売をはじめて、お小遣いを稼いだりしてた。たぶん、それは、インターネットやお商売が好きだったから勝手に夢中になってたし、成果もでていた。(もしも、当時の自分に、今の僕が出会っていれば、そんなことができた自分をぜったいに褒めてたと思う笑)でも、これは勉強とか運動という、わかりやすい学校教育の中では褒められなかったから、僕の落ちこぼれという認識は変わらずにいました。

でも、実際のところ、大学でいろんな経験を積んだり、社会に出てみて分かったこととして、「本当はめちゃくちゃ世界は広くて、好きなこととか、得意なことが、意外と褒められるし認められる」ということもわかった。そして「たくさんしっぱいしてもいい」ということも。

だけど、高校までの教育で、全然そんなこと、誰も教えてくれなかった。
これってめちゃくちゃもったいなくない?

同級生にいた、ヤンキーのあいつ、実は、漫画や映画のストーリー考えるのすごくうまかったなあ、とか。一見真面目で口数少なかったあの子、最新ガジェットの話になったら、すごく饒舌で話すのがたのしかったなあ、とか。その子たちが、自分の好きに本気で向き合ってたら、たくさんいいしっぱいをしていたら、どうなってるんだろう。たまたま自分の道を選べた人だけが、そのルートが開かれる、そんな世界になんとなく違和感があったのが、僕の起業の最初の最初のはじまりです。

そんなわけで、僕は「学校のように勉強を教えない」「というか何も教えない」「好きなことを子ども自身がやってみる」教室をつくろうと思って、会社を辞めて、京都で起業をすることを決めました。


ちなみに、どうして会社を辞めてまで、それをやりたいと思ったかというと、理由は2つ。

1つは、教育、全然変わってないじゃん、と気づいたから。
僕の実家は大家族で、僕を含めて7人兄弟なんですが、ある日実家に帰った時に12歳年下の、当時小6の弟が学校の話をしてくれて。その弟から聞く今の教育の方法、学校のありかたが、僕が小学生だった時と全く変わらない内容だったんです。なぜこんなに世の中は変わっているのに、世の中に人を送り出すための教育システムは、まだ全然変わってないの?これが、僕の違和感その1です。

もう1つは、僕自身が、社会に出て、全然うまくいかなかったからです。結構、23年間頑張ってきたのに、大学時代もお金を稼いだりしてたのに、世の中に出てみたら全然うまくいかなくて。先輩からはめちゃくちゃ怒られるし、成果も出ない。え、俺がやってきたことって、全然社会とつながってないのかな?と感じたんです。僕だけならまだしも、横を見たら、学生時代に優秀で真面目だった人たちが鬱になったり、会社でうまくいってなかったりしていて。学生の間は「学校」という世界の中の尺度で測られますが、学校を出た瞬間、いきなり「ビジネス」の世界に放り込まれる。問題を解くだけではなく、自分で問題を発見することを求められるたりする。友人たちが悪いわけじゃない。どちらかといえば、そのいきなりの方針転換を求められるシステムをどうにかできないか、と思いました。

そんな2つの気づきから、教育と社会にはまだまだ溝がある。そこをなんとかしたい!今すぐやりたい!というそんな気持ちで(勢いで)始めることにしました。調べてみると、他の科目教育をする塾に比べて、競合もいない。これはいいぞ、ブルーオーシャンだ!そう思って飛び込みました。

元々、起業や独立、教育分野にも興味があったし、自分が人生で取り組んでもいいかもと思えるテーマが見つかって。すごく、わくわくしてた瞬間でした。


❷やってみて気づいた、「あれ、もしかしてPBLって全然儲からない?」期

意気揚々と教室を開業してみたのですが、当時の僕は本当にちょっと無鉄砲なところがありまして(いや、今も多少そんな気もする。ただ、当時はもっと無計画で無鉄砲でした)、キャッシュフローとか、ビジネスモデルとか、本当にそういうことがアマアマでした。

とりあえず場所を借りて、教室を開いたはいいものの、生徒1人探すのもすっごく苦労して。僕の投資余力は、自分の時間だけだったので、なんとかしなきゃ、と思って、生徒を集めるために、とにかくお家1軒1軒を回ってビラを配り、必要に応じて訪問して説明して、頭下げて、営業して(ビル倒しや!と思ってたけど、一般家庭への訪問、しかも塾というのはかなり不審者です。)…とにかく自分ができることで、生徒を集め続けていました。ちなみに、ピンポン営業で来た生徒は0名です(笑)

半年間生徒がたった1人の、10畳一間の教室からスタートしました

結局、知り合いの方がお子さんを預けてくださったのが最初の生徒。その後、生徒1人が半年間くらい続きました。そこから近所の子も数名来てくれて、ようやく集まったのが5名。おうおうまじかーい!と笑っちゃうような成果でしたが、それでも、塾に生徒が来てくれることは幸せでした。もしかすると、遠回りしているかもしれないけど、1人1人に向き合って、やりたいことを見つけて、挑戦して、失敗して、それで成長していく子どもの姿を見ていると「やっぱりこういう教室は絶対に世の中に必要だ、やる意味がある」と信じられたし、続けるモチベーションになりました。

そこで僕がやりたい教育手法を言語化しないと、と思うようになり、出会ったのが、PBL(プロジェクトベースドラーニング)という教育のあり方です。PBLとは、という話をするとこれまた長くなってしまうので、詳細は省きますが、一言でいうと「座って教わるんじゃなくて、やってみて学ぶ」教育的なことです。ああ!!そうじゃん!それそれ!これうちのやってることに割と近い!と初めて、言語化された瞬間でした。

ただ、それでもまだまだ、僕のやりたいことを理解してもらうのが、すごく難しくて。生徒集めにはめちゃくちゃ苦労をしてました。ただ、考えてみれば、当たり前。世の中のお父さん、お母さんに「子どもの”好きなこと”をやってみる、PBLの教室やってます!」って言ったとしても、「それはなんですか?」って感じ。なぜなら、そういう教育のあり方はスタンダードじゃないし、名前も知らないし、何が良くなるのかわかりづらいし。「◯◯高校にいけます!」とか、「偏差値あげます!」とかのほうがまだ投資対効果が見えるわけで、なんだかすごくでかい壁にぶつかりました。

小学生5人で行った、ノラ猫の写真集を作り、アイドル化し、飼い主を見つけるプロジェクト

そして、もう1つの壁として、気づいたことは、理想のPBL型教育をしようと思うと、費用対効果が悪くなりがちということ。生徒のやりたいことを見つけて、寄り添って、必要とあらば投資して、しっぱいを振り返らせるっていうのは、本当に理想なんだけど、時間のかけ方で言うと、利益度外視でやりたくなっちゃう。という現実です。でも、ここで、効率化とか、型化とかをしてしまうと、理想のPBLにならない。

要は、PBLは儲からない。
PBLは、みんなまだ存在を知らない(当時は教育業界にもPBLを知らない人がほとんど)、だから必要性を理解をしてもらうためのマーケティングコストも高い、そして理想を追うと運営コストも高い。ビジネスとしてはハードルが高い領域なんです。そりゃ競合が全然いないのも頷ける。オーシャンがブルー過ぎる。

そんなわけで、教室を始めたての1年はまじでジリ貧でした。あんまり大きい声では言えないけど、キャッシュが回らなくなって、督促状とか来てました。なのでしばらくは、経営者の先輩たちに仕事を回してもらったりしながら、食いつないでいたのが現状だったと思います(本当にありがとうございます…本当に僕は、頼りになる人らに囲まれる才能があるのかもしれません…。)

それでも、僕は絶対にこの教育はおもしろいし、これからの時代で必要になると信じていたし、浪漫と算盤を何とか実現する突破口を見つけるために、とにかく考えて、動いて、動きまくろうと思っていました。

立ち上げ当初、大学時代の後輩をはじめ、たくさんの学生たちが無償で手伝ってくれました


❸生徒が、一気に10倍。生徒や仲間が一気に増えて、わくわくしてきた、いける?いけるっしょ!期

そんなこんなで、僕はなんとか日々を食いつなぎながら(いや、督促状ってことはギリ食いつなげてない気もするけど)、PBL教室を細々とやっている感じが続いていました。もっと生徒を増やしたい、けど、なんかうまくいかない。という悶々とする日々の中で、大きな転機になった出来事は、まさかの「テレビ出演」でした。

studioあおをスタートするきっかけをくれた恩師が、僕をテレビ番組のディレクターさんに紹介してくれたことで、「よーい、ドン」という関西ローカルの番組のコーナー、「となりの人間国宝」(街なかで出会った印象に残った人を取材する番組)で教室の様子が写りました。

銀シャリさんが僕らの教室のこと喋ってるの見て興奮しました

そこで、初めて、テレビの映像を通じて、studioあおという塾のやっていること、PBLとは何か、どんな教育を実現したいのかが、世の中に発信されました。たぶん、僕が文章で説明するよりも、わかりやすく、濃い情報量を、短時間でその番組の中で伝えることができました。

そして、その翌日から電話が鳴り止まなくなりました。

PBLという言葉では理解できなかった、教育の解像度が一気に伝わったのかもしれませんし、テレビという信頼感もあったのかもしれません。ぜひうちの子も見てもらえませんか、入れませんか、という親御さんからの電話が止まらなくなったんです。

人数が増えて、教室全体のイベントは外でやるようになった

とにかく、このときに確信したのは、PBLは親御さんからのニーズもあるということ。僕自身や教育業界に身を置く人が世の中に必要だと思うだけではなく、親御さん側でも「そういう教育を、ぜひ受けさせたい」と考える人がいるんだということを知りました。そして、今までうまく行っていなかったのは、僕自身が伝えられていないからなんだ、ということも思い知りました。もっと、マーケティングやブランディングに力をいれるべき、と痛感したのもそのときです。

そんなきっかけもあり、マーケティングやブランディングにも本格的に取り組むために、法人化してやっていくべきだと思い、COLEYO、という会社としてスタートすることになりました。「すべての才能に目を向けよう」という我々の理念を言語化したのもこのあたりです。

それからまず、学生時代から信頼していた能代が、COLEYOにジョインしてくれ、次に松本がきてくれて、橋本や柴くんがインターンで参画して、どんどん、仲間が増えていった時期でもありました。まだまだビジネスとしては過渡期でしたが、みんなでPBLをやろう、もっともっと良さを伝えていこうと信じられるようになった。大きな転換期になったのは間違いありません。

スーパー薄給にも関わらず、取締役 能代、デザイナー 松本がジョイン。とても嬉しかった。

❹チームでピンチを乗り越える、コロナ禍を大チャンスに!期

そして、実は、もう1つの大きなビジネスの躍進のきっかけが、2020年に始まったコロナ禍でした。

僕らのようなリアルビジネスをやっている人からすれば、ものすごく大打撃を受ける可能性もあったし、さすがにヤバいな、と思ったのも事実です。でも、会社全員でコロナ禍での教室運営の方針をすぐに話し合い、一時的にオンライン教室にしたり、感染防止のために教室の運営方法を変えてみたり、スムーズに移行できる体制をスピーディーに整えることができました。これは本当にメンバー全員の努力と、理解を示してくれた生徒たち、親御さんのご協力の賜物です。本当にありがとうございました。

オンラインでPBLにチャレンジもしました。が、やはり"リアルな体験"の価値には敵わず、コロナ落ち着きだしてから、リアル授業に全て戻しました。

なので、おかげさまで、コロナ禍という厳しい状況のなかでも、生徒数が減ることはなく、僕らの事業は大打撃を受けずに済みました。むしろ、子どもが家にいる、学校に行けないことで、仕事との両立に悩んでいた親御さんからは、感謝の声をいただくことも。COLEYOへの信頼感が高まる、ポジティブないいきっかけにもなりました。もう一回、こういうパンデミックみたいなことが起こってもすぐに対応はできる、運営し続けられる、ということが自信になりました。

加えて、世の中の親御さんたちの価値観が一気に変わったのも、このコロナ禍だったと感じています。そのときから、明らかに親御さんたちが「世の中は変わる。以前の価値観が一気に崩れ去るような時代が訪れる。」ということを目の当たりにして、「世の中を生き抜く力を子どもに身に着けさせたい」という気持ちがぐっと強まったのです。基礎教育として学校で教わることは、それはそれできちんと勉強させつつも、「自分で考える力」「問題発見し、問題解決する」力に注目をされるようになりました。トレンド、とまでは言い切れないかもしれませんが、世の中の見る目が変わってきた。そんなチャンスも感じていました。


❺あれも、それも、ここでも、あそこでも。いろんなものに応えすぎて、組織が崩壊しかけた「迷走と再出発」期

テレビに出て、生徒数が一気に増えて、仲間が増えた。加えてこのコロナ禍での価値観の変化。僕らの会社には徐々に、いろいろな学校、企業、自治体など、いろいろなところから「その教育をうちでもやれませんか」という声がどんどんかかってくるようになりました。

実際、このときに、僕らはいろんなことを始めるようになります。とある行政からの依頼でイベントをやったり、たくさんの教育関係者の前で登壇したり、学校にカリキュラム提供したり。僕らのできることで、ビジネスを回していくことができるんだ!という気持ちで、とにかくなんでもやっていました。

この時期からうちの会社に関わる人数も増えました。

僕としては、やっと世の中に(少しづつだけど)認められるんだ、という嬉しさもありました。ただ、ぶっちゃけ調子にのってました。
というか、軌道に乗ったかも、一気に大きくできるかも、だってこんなに色んな会社から声かけてもらってるんだし。そんな、ちょっと浮ついた気持ちが生まれてしまいました。

でも、そんな頑張り(だと、当時の僕は思っていた)に反して、実は、COLEYOの成長は停滞していました。

仕事がない、明日生きる金もない…というような状態からはもちろん脱しましたが、本業であるstudioあおが大きくなったというよりも、1個、1個の案件を乗りこなして、回しているだけの状態。とにかく毎日が忙しくて忙しくて、自分が本来、目を向けるべきこと、考えなければいけないこと、フォーカスしなければならないことを考える時間がとれていませんでした。

お声がけをいただいた皆さんとの取り組みが決して悪かったわけではないですし、そこで学んだこともたくさんあるのですが、本質的にやりたかった「子どもが好きから社会とつながる教室」ということがなぜか後手に回っていました。


そして極めつけは、デザイナー松本から言われたひとこと。「最近のテツさん、なにしたいんかようわからん。おもんない」と。

当時の僕は必死で、なんとか事業を維持、むしろ投資に回せるくらいのお金を稼いでいる意識もあったので、前進していると思っていて。正直最初は、ええっ?と思った。いや、正直、ちょっとムカついた。でも、その言葉がきっかけで、あ、このままじゃだめかも、と気づいたんです。

僕がもともとやりたかったことは何だっけ、何のために起業したんだ、どうして仲間を誘ったんだっけ、どうしてどうして…。とにかくこの時期、ぐるぐる悩んで、僕は1週間会社の業務を手放して、結論を出しました。

僕らは、僕たち自身が子どもたちに直接、色濃く、PBLを届けるためにやる。逆に、それ以外のものは一旦止める。

もしかすると、いろんな第三者とのコラボレーションを広げていっても、いまの教室の規模、現状維持はできるかもしれない。でも、本当にやりたいことに向き合わないと、これ以上は大きくならない。そこにピュアに向き合う。そのために時間を使おうと思ったのが、このときでした。

そして、このときに、立ち上がっていたプロジェクトの1つであるよのなか体験教室”タッチ”にすべてのパワーを割くことに。同時に、toBの案件のプロジェクトを中断・縮小することも決めました。子どもたちのために、toCに全て注ぐ、と方針を決めた時期です。メンバーにも説明して、その方針を受け入れ、理解してもらい、COLEYOは新たに再出発することにしました。


❻僕らの決断は間違ってないはず!「浪漫と算盤が徐々に成り立ってきた」期

”タッチ”が生まれたそもそもの背景、課題は「studioあおの考え方や教育に共感する。けれど、自分の子どもにはハードルが高そう」という親御さんの声でした。

”studioあお”は僕が当初から続けていたCOLEYOの土台ともいえるPBL型教室で、子どもたちのやりたい、考えてみたいと思う課題を発見し、プレゼンをしてもらい、投資して、実際に取り組んでもらう。この子どもたちの学びを循環させるための教室です。でも、これは”やってみたい”が見つかった子のほうが、いち早く価値を享受できる仕組みになっていました。逆にいえば、体験にきても入会をしない子たちは、「やりたいこと」をまだ見つけていなかったのです。

だからこそ、「やりたいことを持っている子を育てる事業」をつくりたいと思うようになりました。
”studioあお”に行く前に、”タッチ”で沢山の体験や経験を積んでもらう。この経験や体験の積み上げによって、将来自分が取り組んでみたいこと、興味関心の幅をぐっと広げてもらおうというのが、企画の趣旨でした。そうして広げてもらってから、”studioあお”に来る方が、体験の質が濃くなるだろうと思ったのがきっかけです。

そうしてこれは、ビジネス的にも合理的でした。

まず、1つはこのプログラムがあることで、親御さん側が理解をしやすくなったこと。”studioあお”は完全オーダーメイド型だったので、親御さんからの目線でみれば、その子自身がどんなプログラムを体験するかは入ってみなければわからない、という部分があったのに対して、”タッチ”は何を体験するかが明確なぶん、安心して、習い事感覚で始めることができるようになった。何かを鍛える塾というよりは、水泳や絵画を習わせるような感覚で、タッチという選択肢をとれるようになりました。

もう1つは、コンテンツという形で、体験させるモノ自体の型を決めることで、講師側の負荷を減らすことができたこと。もちろん、PBL教育の本質である、思考を促す、協働してコミュニケーションする、肯定的なコミュニケーションをするということ自体はぶらさずに、その子1人1人に向き合いながらも、なんでもありの自由格闘技ではない分、運営がしやすくなりました。

この”タッチ”の登場により、僕らのビジネスは一気に進みます。子どもたち、親御さん、運営する僕らの課題も解決する、新しい企画の誕生でありがたいことに生徒数はタッチ単体だけで200人まで増え、studioあおも合わせると、生徒は300人まで広がりました。教室は京都だけではなく、大阪にも進出し、そちらの生徒数は100人に。事業規模でいうと、2020年から2024年の3年間で約5倍になっています。
生徒5人だった初期と比較すると、とんでもない勢いで、事業が大きくなっていきました。加えて、2024年2月には、1000人来場の”子どもの体験”の祭典「ニュー体験万博@みやこめっせ」を開催。関西の多くの子供たちが、僕らのPBLの教室に参加できるようになってきた兆しがどんどん生まれていっています。もっと僕らは攻められる。そう思った期間です。

2024年2月 ニュー体験万博

そして、2024年。僕らはどこに向かっていくのか。

こうして振り返ってみると、めちゃくちゃいろいろなきっかけと、関わってくれたみんなの努力と、様々な人の助けによって、COLEYOという会社はできてきていました。本当に関わってくださった人に、足を向けて寝られないです。(助けていただいた人が多すぎて、どの方角にも足を向けられない。)
ほんとに、ありがとうございます。そして、あらためてめちゃくちゃ「しっぱい」してんな、と。「しっぱい」推奨の会社としてはいいことだと思います(笑)

2024年は、そういう意味では、軌道に乗ったこの勢いを落とすことなく、攻める時期、だと僕らは思っています。だからこそ、今期の採用もどんどんする。そう決めています。

子どもたちにもっとPBLを広げたい、だから、PBLをビジネスにする、という浪漫と算盤が徐々にあってきたこのタイミング。次の記事では、ここから具体的にどんな世界を目指していきたいの?何に挑戦したいの?という未来軸の話を書こうと思っています。今までのビジネスをもっともっと進化させる。その次の手をお話します。

ただ、COLEYOは絶対に「僕たち自身が子どもたちに直接、色濃く、PBLを届けるためにやる。」この方針だけは、今後もブラすことはありません。むしろ、その未来をもっと大きくワクワク描くうえで、僕らの考えていることを知ってもらえたら嬉しいです。

というわけで、次回は、後編として未来の話を書いていきます。うわーうまく書けるかな!でも、頑張ってCOLEYOのことを知ってもらうために頑張ります。

▼後編に続く▼


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▽コンテンツデザイナー インタビュー

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