残夢【第三章】①真相
近堂の父親は、結局お茶を三杯飲んだあと応接室を出た。次に面会の申し込みに来るときは身分証明書を持ってくるように伝えると「はいはい」と返事をしながら振り向かずに鳩巻署を後にする。
あれはもう面会には来ないだろう。だが、その父親の発言により近堂が金門村にある家に通っていた可能性があると分かった。俺は、金門村に住んでいたことのある自分との関連が見えてきたことを自ら課長と係長に報告した。
「ケンさん金門村に住んでたの?」
強行犯係のシマに戻ったあと、小池さんが俺に尋ねた。
「はい。小学校の数年間。例の事件の後に引っ越しましたが」
「あの事件の後に? そう」
三十年前。
事件後に越したということは、事件当時には住んでいたということだ。金門村といえば他にこれと言った話題がない。「例の」「あの」という冠をつければ共通の事件のことが頭に浮かぶ。県内の人間なら。
小池さんは穏やかではないという顔つきで俺を見た。
「じゃあ、ケンさんと思い出話にでも浸ってもらって。心穏やかに今回の動機を吐いてもらうか」
あの村のどこかで、俺は近堂と会っていたのか?
必死に思い返そうとしても何せ小学生の頃の話だ。余程のことがなければ記憶には残っていない。だが近堂の中では「余程のこと」なのだろう。
じりじりと何かが背後に迫り寄ってきている気がする。それが何なのかハッキリしなくてもどかしい。
小池さんは、近堂の取り調べをしていた嶌村と山下に父親から聞いた話を伝えていた。
「近堂は、あの事件があった家に出入りしてたってことですか」
「さあ。それは分からない。事件の頃に出入りしていたのなら警察に事情も聞かれて記録が残っているだろう。他のセミナーかもしれない」
「ケンさんも当時、現場に行ったことがあるんですか」
山下が質問してきた。
「子どもの頃、あの現場となった家に出入りしていたクラスメイトは確かに居た。だが今となっては名前もはっきり覚えていないし小学校以来会っていない。それに近堂のことは全く記憶にない」
言い訳のように聞こえるかもしれないが、それは事実だ。
「でもケンさんに会いたかったってのは、嘘じゃなかったんだろうね」
小池さんが言う。
「三十年前だとすると、年齢的に初恋か何かですかね」
「それ以来、会ってないんだろ? よく覚えていたよな」
「だから鳩巻署に何度も足を運んでたんですかね。電柱に車を擦りましたとか、つまんないことで自首してきてまで会いたがってたんだから、よほど好きだったんだな」
「普通に声をかければいいのに」
「その発想や執念が怖いよな。ストーカーは自分だよ」
強行犯係の人間がつぎつぎと思うところを口にした。
今までもずっと心の中ではそう思っていたのだろう。それが単なる妄想でなく事実である可能性が高まったことで堂々と口にして構わないと。
想像で勝手なことを言いやがって。
肺の奥から隙間風のような悲鳴が漏れそうになる。俺は拳を握りしめた。
「堂森、念願だったんじゃないのか」
俺に背後から声をかけたのは刑事課長だった。
「金門村の事件を解決するのが、お前の念願だったんだろう?」
刺すようなまなざしで俺を見る。課内の空気がぴんと張りつめた。
課長の言う通り、この県警で働くことを希望した第一の理由はそれだった。鳩巻署に異動したときも課長にその話をしている。俺が警察官になってから何度も村島市への異動を希望しているが叶わないという愚痴も。一般署員の異動希望など叶わないのは分かっているが。
だが、今回はその事件の取り調べではない。
「ところで、なんで未解決なんでしたっけ」
山下が申し訳なさそうに小声で嶌村に問いかけた。仕方ない。まだ若い山下の、生まれる前に起きた事件だ。
「知っている限りのことを俺から説明しよう」
俺は、山下に向かって口を開いた。
*
あの事件の詳細はこうだ。
群馬県金門村(現在の村島市金門町)は、日本でも有数の避暑地に距離が近いがアクセスする道はなく、過疎化が進む限界集落のひとつ。
そんな土地に、ある年、高級避暑地にあるような瀟洒な洋館が建設され中年女性と年下の外国人男性のカップルが足しげく訪れるようになる。
そして一九九五年のクリスマス前、その洋館で殺人事件が起きた。
亡くなったのは三名。
ひとりはその家の主、百藏葉子。
ホステスをしていたころに知り合った実業家と結婚し、娘がまだ幼いうちに離婚。その時の慰謝料のひとつとして亭主の経営していた英会話スクールを引き継いだ。実際の経営は他の人間に任せきりだったのが幸いしたのか、スクール自体は現在も全国に何店舗かあり、名称を変えて今でも営業を続けている。
百藏葉子の死因は刺殺。
小さなナイフで何度もめった刺しされ、バルコニーで出血性ショックによる死亡。彼女の白いドレスだけでなくバルコニーのカーテンまで真っ赤な血で染められていた。
二人目の犠牲者は、葉子の娘で当時十八歳だった百藏加奈。死因は撲殺。両側頭部を計三回、ハンマー状のもので殴打され、そのままバルコニーに倒れ後頭部も床に強打。死に至らしめたのは右側頭部の打撲によるものとみられる。
その二人が死亡しているのを発見したのは、その英会話スクールのセミナーに通っていた子ども達だ。
三人目の犠牲者、ジョン・オノダと呼ばれていたムハンマド・ホッセイニは警察によって寝室で発見された。死因は窒息死。
首に縄の痕があるため絞殺かと思われたが、解剖の結果、口を塞がれたことによる窒息であると判明。顔にマスクを被せられ、後ろ手に玩具の手錠をかけられたうえでの窒息。他殺以外の可能性は、当時の警察には全く考えられなかった。
三人の死亡推定時刻はほぼ同じ。百藏葉子が普段所持していた財布が無くなっており、村の複数の子どもが、現場から立ち去って軽井沢方面へ山を下る「大柄の男」を見たと証言している。
捜査本部は、土地勘のある人間による強盗殺人とあたりをつけて捜査を進めた。
被害者を悪く言うものは普通あまりいないが、この事件に関してはそうではなかった。
「感じの悪い夫婦だった」
ワイドショーでは顔を隠した住民が口を揃えてそう言う。都会の人間が広大な自然の中でネイティブの英語や文化が学べるなんて「騙されているだけ」と半笑いで語る。
それらは村人による嫉妬だともとらえられ、逃げた男の足取りが全くつかめないということは、村人たちが犯人を匿っているという見方も当初はあった。
一九九五年は阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件があった年。
一年を締めくくる時期にこの事件が発覚して一時は騒然となったが、年が明ければ小さな田舎のいち事件より「あれから一年」という報道のほうが多く見られた。
一般人の興味が長く続かなかったのだろう。生前の百藏親子の態度はあまり褒められたものではなく、被害者を悲しむ声が少なかったため視聴者の同情をひけず、話題として物足りなかったとも言える。
あっという間に報道が下火になったため、逆に百藏家が警察に圧力をかけたのではないかとか、 犯人が未成年だったのではないかという根拠のない噂も立った。
葉子を死に至らしめたナイフは、娘の加奈が金門村を訪れる前日に都内の量販店で購入したものとすぐに判明した。しかも母娘の住所地である都内で聞き込みをすれば二人の不仲と確執の話しか出てこない。最初にムハンマドと恋人関係にあったのも娘のほうだったという。真面目だった彼の性格を変えてしまった母が憎いと、母親を殺したいほど憎んでいると、娘の友人までもが証言した。
早い段階で百藏葉子は娘によって殺害されたと断定された。
その後、科学捜査班は娘を撲殺したのは母親の葉子であるという説を推した。頭部の傷の位置や角度、血痕を辿れば、そう考えるのが自然だと。掃き出し窓付近のバルコニーの血痕は第一発見者である子供たちの足跡によって荒らされてしまったが、それ以外に怪しい足跡はない。
葉子は何度も娘に刺されながら抵抗し、近くにあった鈍器で殴打。左利きの葉子が娘の右側頭部を力いっぱい殴ったのが致命傷となり、凶器はその勢いで手から離れ大理石のバルコニーを滑って外に落ちたと血痕が物語っている。その後助けを求めることもできず命尽きたのではないか。娘に切り付けられながらも、そこまで抵抗できたのなら、発見が早ければ一命を取りとめていたかもしれない。
残る男性を殺害したのは誰か。
寝室で見つかった男性の遺体に二人の血液は付着していない。男性は二人とは無関係に、あるいは先に殺害された。真っ先に疑われたのは百蔵母娘だったが、身に着けていたマスクや玩具の手錠から検出された複数の指紋の中に、百蔵葉子や加奈の指紋はなかった。
後日、男性は他殺ではなく事故だと主張する自称SM評論家が現れた。遺体発見時の様子を警察は仔細に発表していなかったが、どこかから情報が漏れた。
自分ひとりで性的快楽を得るためにラバーキャップを被り、空気が入らないように自らガムテープで隙間を閉じ、自分で後ろ手に手錠をかける、といった行為を行う人間は珍しくないと。おそらく、パートナーの葉子が近くにいるから安心して行為を始めたのだろう。ところが突然訪れた娘と葉子は諍いを始めプレイどころではなくなった。誰も顔のマスクを外すことができず事故で無くなった可能性が捨てきれない。
SM評論家は、警察にそう進言したのに頭が固くて全く聞き入れてもらえないと記者に溢し、週刊誌はそれを「変態家族の成れの果て」と報じた。
それらがすべて事実であれば事件は解決だ。
ただ問題がひとつ。撲殺に使われた凶器が見つからない。
警察は考えた。もう一人、いる。
男性の殺害に関与し、母娘の諍いを見届け、凶器と財布を持ち去って逃げた者。子供が目撃したと言う「大柄の男」を警察は重要参考人として必死に追った。
俺は、警察発表されていないことも記憶を辿って山下に伝える。
第一発見者や証言をした小学生がいることで学校の先生たちは神経をとがらせていた。セミナーに通っていた女子児童たちはショックで学校に来なくなった。のちに数人は戻ったが、そのまま転校した子もいる。
男性の死亡時の様子が週刊誌に詳しく書かれた後は特に、先生たちは、子供たちに早く事件のことを忘れさせようと必死だった。学校で事件の話をするのは禁句だった。
大人たちも、「土地勘のある大柄の男」が誰なのか互いが監視し合うように毎日を過ごしていた。
小さな村のどこかに、殺人事件に関与した人間が隠れているかもしれない。警察に捜査の進展を尋ねても何も教えてくれない。
長年家族のように生活を共にしてきた村人同士が急に互いを疑うようになっていき、もともと土地の者ではない「よそ者」は、それまでに築いた信頼関係など最初からなかったかのような扱いを受けた。
ところが突然、「逃げる大柄の男を見た」という子どもの証言が嘘だという疑惑が世間を騒がせる。話題として下火になっていた事件だが、この時ばかりはマスコミもほじくり返した。
こともあろうかその子どもが「警察官のおじさんが怖くて嘘をついてしまった」とマスコミに証言したからだ。
「当日の夕方、あの付近を走っている人を見た」のは事実だが、あの家から出て行ったとか軽井沢方面に向かったとか、そういったことは言っていないという。
警察関係者はマスコミのインタビューを受けた子供だけでなく「複数の子供の証言を得ている」と話し、子供に威圧的な態度をとったことは当然否定している。
だがマスコミはさらに煽るような報道を続けた。
母娘ふたりの殺し合いならば現場から凶器が見つからなければおかしい。持ち去った大柄の男など存在せず、現場検証が不十分だった初動捜査のミスではないか。
大柄の男がいないとなるとミスを認めることになる。そう考えた警察が焦り、曖昧だった子供の証言に色を加えてしまった可能性も否定できない。
そういう姿勢でマスコミは報道した。
村人たちの「不安」は、警察に対する「不信感」に変わった。
よそもの家族が我が村に来て勝手に殺し合った。
それなのに警察は村人の中に犯人がいると疑っていた。
その週刊誌の報道をかわきりに、警察から事情を聞かれたことのある女子児童たちが一斉に警察官に対して恐怖を抱いたことを訴えだし、そのうちの中学生二人が、身体検査といって警察官に体を触られたと言い出した。
警察は「バカバカしい」と一蹴したが、その真相は不明なままだ。
村人たちの警察への反感は抑えきれないものになり、捜査協力はその後ほとんど得られなくなる。それだけではなく積極的にマスコミに対し、警察の捜査で山の畑が荒らされただの、飲食店での態度が良くないだの吹聴するものが次々現れた。
さらに、情報提供を呼び掛ける捜査本部の電話番号宛に公衆電話からいたずら電話を頻繁にするものがいて捜査に支障がでた。村にある複数の公衆電話から発信されたことまで判明したが、不思議なことに誰かが電話をかけている姿を、村人は誰一人見ていないという。
それが村役場の受付カウンターの上に備えられた公衆電話からかけられた場合でも、だ。
その結果、何が起きたか。
「早く村から出て行け」と言うメッセージを受け続けた捜査本部の若い警察官は虚偽の報告書を作成した。
村人からの嫌がらせが辛く、早く捜査を終わらせたかったと後に証言する。
捜査本部や県警への信頼はガタ落ちだった。村人だけでなく県民、世論全体が、この事件について嘲笑交じりの諦めの気持ちしか持たなくなってしまった。
それが、俺が金門村にいたころ見てきた、三十年近く経った今も未解決の「金門村一家殺人事件」だ。
*
「男は事故死、娘が母を刺し、抵抗した母が娘を撲殺した。それが真相だとすると」
山下がつぶやいた。
「事件は解決じゃないですか」
「いや。県警はあくまで、逃走した男を探すという捜査方針を変えていない」
「なぜですか」
真っすぐな瞳を向ける山下に、俺は自分の考えを全てぶつけるつもりはない。そっと目をそらし「分からない」とだけ答えた。
「たしか、あの事件があった家に出入りしていた子供たちは、ちょっと強烈な思想の持ち主だったって噂もありましたよね。男尊女卑ならぬ女尊男卑的な」
嶌村が言った。
「セミナーでそういった思想を植え付けられるようなことをしていたんでしょう」
「洗脳ってことか。家族から引き離されて寮生活していたわけでもないよな」
小池さんが疑問を唱えた。
「洗脳とまでいかなくとも、何かの情報がたまたま不遇な自分の状況に当てはまるとなれば、信じてしまうことはある」
「占いみたいなもんか」
「あ、フィルターバブル」
数日前の刑事課での会話を思い出したように山下がつぶやいた。
「たしかに、インターネットじゃあないが、今まで知らなかったことをポンと与えられて衝撃を受けた子供を、その色に染めることは簡単なのかもしれない。手慣れた大人にとっては。近堂に限って言えば、親がすでにそういった思想だった」
「なるほど」
「そして近堂たちは大人になった。男女差別され続けてきたことを訴え続ける。それはいい。だが、いつまで経っても時代が変わらない。強硬手段に出るしかないと考えた」
「それで、近堂も男を切りつけたんでしょうか」
「動機が見えてきましたね」
「あとは、それを喋らせるだけです」
仲間が一斉に俺を見た。課長が指示を出す。
「思い込みは捨てろ。だが、明日の取り調べはケンさんに任せた。あとは華乃。女がいいだろう」
「はい」
華乃が気合を入れて頷いた。
念願だと?
課長の言葉を思い出し、気付けば俺はカラになった煙草のボックスを握りつぶしていた。
近堂の取り調べで金門村の事件が解決するわけではない。あの付近にいた小学生が大人になり、たまたま数日前に傷害事件を起こした。おれはその傷害事件の動機を聞き出すだけだ。
金門村事件の解決など、無理なんだ。
俺の犯した過ちは、消えはしない。
②「~ひろ子~」へつづく ▶