残夢【第三章】②~ひろ子~
ああ、やっと
やっとあの時の男の子が私を迎えにきてくれた
私の周りには粗暴な男しかいなかった わざと意地悪をする すぐ怒鳴る 突然襲い掛かる そんな男しか だけどあなたは違った さみしくて泣いている私を見つけてくれた 私を心配して わざわざ戻ってきてくれた 私を導いてくれた
ずっとあなたの背中の星座を探していた 母が病に伏せ あなたを探し始め 昔の友人が見つけてくれた あなたの星座 あなたが汗にまみれた面を外し 苦しそうに呼吸するのを 見たの 見たいの もっと
「苦しむ顔が」
「俺の苦しむ顔が見たいなら、なぜ俺を刺さなかった」
あなたは笑う 違う 見たいのは笑顔じゃないの あなたを刺す? 刺して死んでしまったら終わりでしょう もう、間違えたくない 私を見るたびに 私を見つめて ずっと もがき苦しんで欲しい あの日を 思い出して 苦しんで もっと
苦しんで
*
男の子が山を走って降りて行くのを見た翌日は、雪が降りそうなくらい寒い朝だった。
なぜ昨日はセミナーに行かなかったのだと、お母さんから電話がかかってくるんじゃないかとビクビクしていた。
だけど、お母さん。
私ひとりの特別セミナーで、私が何を見て、私が何をしているか、知らないでしょ。
そこは、私は耳を塞ぎたくて、目を閉じたくて、私が私でなくなるような怖い時間で。
それが、それでも、待ち遠しくて、我慢のできない時間であることを。そんな私を、知らないでしょ。
だけどお母さんからの電話はかかってこなかった。お祖母ちゃんが畳の上で足を伸ばして言う。
「イタタ。今日は寒くて膝が痛い。痛くてたまらん。今日はどうするん。あの山に行くんか。行きたいなら送るけど」
私は首を横に振る。
「そうか。すまんの」
「お祖母ちゃん。セミナーに行かないとだめ?」
「行きたくないんか?」
私は俯く。
「そっか。英語なんかまだ早いな。難しいな」
私は首を振る。
「友達にいやなやつでもおるか」
私は首を振る。
「なん。先生が怖いか」
私は首を傾げる。
「そっか。怖いか。無理すんな。大晦日には和美がここに来るけど、それまでしれっと行ってたことにすりゃあいい」
「お母さんに内緒にしてくれるの」
「ああ、和美には何も言わん。あそこでクリスマスパーティをやる予定だったろ。代わりに何かばあちゃんがプレゼント買ってやろう。明日、買いに行くか」
私の心がぱぁっと晴れた。
だからお祖母ちゃん大好き。優しいお祖母ちゃん。大好き。
私が今、心から「好き」って言えるのは、お祖母ちゃんと、あの男の子のふたりだけ。いつか、あの男の子ともクリスマスのプレゼント交換をしたい。
そう考えるだけで胸がぎゅうと苦しくなって頬が熱くなる。私は、お祖母ちゃんのシワシワの膝を優しくマッサージしてあげた。
翌日のクリスマスイブ。
お祖母ちゃんと車でお買い物に行った。英語の絵本を買ってもらった。そうすればセミナーのパーティに行ったように見えるとお祖母ちゃんが言うから。夜は二人だけのクリスマスパーティ。大好きな唐揚げをたくさん食べた。ホットケーキにホイップクリームも乗せてくれた。
お祖母ちゃんがサンタさんの帽子をかぶって、私はプレゼントの包装を破く。目の前にいるのはお祖母ちゃんなのに、サンタの帽子に白い髭がついていたから、お祖母ちゃんは、おばあちゃんじゃなくて、おじいちゃんになった。
大笑いした。
お祖母ちゃんは、愉快そうに髭をつけたまま私を撫でて抱きしめた。料理の得意な大好きなおじいちゃんが、私を抱きしめる。涙がでた。おじいちゃんと一緒に絵本を読んだ。
「そろそろパーティは終わりだ」
お祖母ちゃんがお風呂を沸かしに行った。つけっぱなしのテレビでニュースが流れていた。
「カナドムラ」という声が耳に入る。
赤い屋根の家が画面に映る。
パトカーの赤い光だけが輝く。真っ暗な中、マイクを持った男の人が難しいことを喋っている。黄色いテープがはられ、青いビニールシートで隠されたその建物は、間違いなくあのおうち。
「警察は、殺人事件とみて捜査をしています」
私は膝から崩れ落ちた。
画面に青い背景の写真がうつる。笑顔のまぶしい二人。
「ヘラ様……」
おととい。黒いスニーカーが玄関に置かれていた日。
もしかしたら、すでにみんな死んでいたのかもしれない。あのスニーカーは初代アルテミスの。夏の終わりには称号は奪われていたのに、いつまでもハウスにやってきてヘラ様と怒鳴り合いをする乱暴な、もと女神。ヘラ様の悪口ばかり私たちに言ってきて、本当に嫌な人になってしまった。称号をはく奪されて当然だ。
そして画面に表示されたカタカナの名前。オノダも死んだ? 首を絞められて?
私は自分の両手を広げて見る。まだ手に縄の感触が残っている。黒くヌメヌメ光るゴムの感触も。流れる汗の感触も。
死ぬわけがない。息ができなくても。オノダは。
苦しい。思い出したら急に苦しくなった。息ができない。空気を吸いたい。
喉をおさえて口をパクパクする。
苦しい。
苦しい。
息が止まる。
苦しくて、気持ちがいい。ああっ。
気付けばびっしょり汗をかいている。体中が熱くてたまらない。足がむずむずする。
そして無性に、虚しくなった。
ヘラ様も オノダも、死んでしまった。
「お風呂わいたで。一緒に入ろぉか」
お祖母ちゃんが洗面所から呼んでいる。
私は、何かに憑き動かされるように、お風呂場に向かった。
シンバルの音がどこかで鳴った。
そろそろパーティの時間だ。
*
翌朝、信じられないくらい目覚めがよかった。
夏からずっと眠れてない気がしていたのに。目を閉じても、朝、目が覚めても、ずっと夢の中にいるようだったのに。こんなにすっきり目覚めるなんて。
お腹が空いたのでお祖母ちゃんを探す。台所にはいない。寝室にもトイレにもいない。
「お祖母ちゃん?」
洗面所に、お祖母ちゃんの脱いだ服が置いてある。床が濡れている。お風呂のプラスチックの扉に水滴がびっしりついている。
「……お祖母ちゃん?」
もう一度、呼びかけた。そしてプラスチックの引き戸をそっと開けた。少しだけ、むゎんとする湯気の匂いが顔を覆う。湯船に視線を落とした。
湯船に仰向けになって、両目をカッと見開いているお祖母ちゃんが水面に揺れていた。
声にならない悲鳴をあげた。
それからどうしたのか覚えていない。気づいたらお母さんがそばにいた。
お母さんは叫びながら祖母ちゃんをお風呂から出してタオルで拭き、泣きながら110番する。そして救急車やパトカーが来る前に私に確認する。
おとといはハウスに行ったのか? 昨日は? 葉子さんに会ったのか?
私はうまく答えられない。昨日のニュース映像を思い出した。セミナーのパーティに行ったことにしようと言うお祖母ちゃんとの約束も頭から抜けていた。「行ってない」と素直に答えると、お母さんは明らかに安堵の溜息をついた。
あの事件にひろ子が関係していたらどうしようと思って朝いちで車を走らせてきた、まさかお祖母ちゃんがお風呂で溺れているなんて、昨晩のうちに来れば良かった、と泣きながら話す。
そして最後に「黙っていなさい」と言った。
「あなたは冬休みにお祖母ちゃんの家に遊びに来ただけ。夏休みも。あの山には一度も行っていない。いい? 全部あんたのためよ。悪の組織が葉子さんたちを狙っていたのよ。そうに違いない。戦いが始まった」
お母さんはそう言って、数日後にはお祖母ちゃんのお葬式と火葬を済ませ、一緒に前崎の平屋に帰った。
私にヘラ様たちのことを尋ねる人は誰もいなかった。
遺影のお祖母ちゃんは微笑んでいた。その笑顔がもう見られないと思うと寂しくて涙がでる。
その遺影のガラスを取り外して蛍光灯の灯りに透かして見ると、涙で滲んだお祖母ちゃんの顔は、お湯の中で苦痛に歪む顔に見えて。
とても満たされた気持ちになる。
*
私はお祖母ちゃんが大好きでした
「おばあちゃん? 何の話だ」
私の秘密は話したわ
そろそろ あなたの秘密も 話してあげる
「見たの、私」
あなたが怪訝そうな目つきで睨む。
「何を」
そう。それでいい。きっとあなたは、苦しむ。
「あの日、あなたが血で染まったハンマーを持って、逃げていくのを」
③「逃走」へつづく ▶