いかのおすし④ 【1時間目】
《美桜》
スマホがぶるると震えてたから、トイレ中のママにそれを伝えた。
「電話?」
「メールぽい」
「じゃいいや」
早くトイレから出てほしいんだけど。と思ってメールを読み上げてみる。
「きのう午後4時半ころ、あさひ町内で小学生ジドウが、えーっと、に『どこの学校? 何年生?』と聞かれたというジアンがありました。男の、トク、トクチョウは……」
「あー、はいはい。今出るから、読まなくていいって」
すぐに流す音がしてボサボサ頭のママがトイレからやっと出てきた。
夏休みだから朝ゆっくりできるって言ったって、あんまり長いのも困るんだよ、ママ。
わたしは入れ替わりにトイレに入った。
トイレの外でママの声が聞こえる。
「また、しょーもないメールだね。なになに。昨日午後4時半ころ、あさひ町内で小学生児童が……ん? 下半身を露出した男性に、どこの学校、何年生と聞かれた……って」
ママはトイレの中の私に向かって大きめの声で言った。
「やだ、美桜。肝心な部分を飛ばしてるよ。こりゃ不審者だわ」
「だって漢字読めないもん。ロシュツ、ね。下半身ロシュツ……あ、ロシュツ狂か!」
下半身ロシュツ中のわたしが言う。
ママは、また大きな声で「変な人がいたら大声出して走って逃げるんだよ」と念を押した。
分かってるって。一学期に教えてもらった「いかのおすし」は、まだちゃんと覚えてる。
知らない人に声かけられたら逃げるんでしょ。
ネットで知り合った人と会ったらいけないんでしょ。
小学生の女の子のフリして本当はオジサンなんでしょ。
そんなの絶対分かるし。そもそもわたし、スマホをもってないっつーの。
あーあ。せっかくの夏休みなのに宿題ばっかでつまんないなぁ。
おもしろいこと、ないかなあ。
毎日、学校のプールと図書館、あと友香ちゃんと遊ぶくらいしかやることがない。学校が休みって意外とつまんない。学童は毎日忙しかったくらいなのに。
本日のスケジュールは……。
念のため頭の中で暗唱する。
友香ちゃんと学校のプール行きます、それで帰ってきて冷凍のチャーハンを食べます、水着を洗います、それから宿題をやります。
あと何だっけ。
わたしはトイレから出て聞いた。
「ママ、今日は何時までお仕事?」
いつもママは6時前には帰ってくる。だけどたまに「売り切れ」と言って早く帰ってくる日もある。
ママの働くサンドイッチ店「森野さんど」は、「ばえる」から結構人気なんだって。
「たぶんいつもと同じだよ。今日はお向かいの唐揚げ弁当買って帰ろうか」
「カラアゲ、やったぁ。あのさ、宿題終わったらさ、友香ちゃんとちょっと遊んでいい?」
「もちろんいいよ。でも気を付けてね。鍵をちゃんと閉めて出てね」
「もち」
わたしがウキウキしながら水着の準備をしはじめたらママが言った。
「やっぱり美桜も携帯あったほうがいいかな」
「えっ! 買ってくれるの?」
ママがスマホ買ってくれるなんて言うわけないと思ってた。やった。まじか。友香ちゃんとLINEできる。ひゃっほう。
「まだ買うとは言ってないけど。買うとしてもキッズスマホだからね。変なことできないからね」
「変なことってなぁに。わたし大丈夫だよ」
信用ないなあ。
まさかエロゲーやったりマッチングアプリ使うとか思ってんのかな。そんなのぜんぜん興味ないって。
「だよね。考えておくね」
「うん!」
やったぁ。毎日ちゃんと宿題やってるからかな。今日はラッキーデーだ。
*
時計を見たら、3時15分前。
今日のやることは全部終わりました。
えーっと。水着は洗ってお風呂場に干しました、チャーハンチンして食べました、宿題ドリルも今日のぶん終わりました。片づけました。
よし。かんぺき。
3時から5時まで友香ちゃんは遊べると言ってくれた。でも三人きょうだいの友香ちゃんちは、お姉ちゃんが高校受験でオンライン塾の時間はおうちの中に入れないって言ってた。わたしたちがゲームすると回線が遅くなるとか。
だから今日は水筒を持って公園の約束。夏休みだから、いつもよりちょっと大きい公園まで冒険するんだ。川ぞいの、春には桜がいっぱい咲く、通称「桜公園」。ふふ。3時、友香ちゃんちに、自転車。楽しみ。
わたしは水筒にいつもよりたくさんの氷を入れて自転車の鍵を握りしめた。
帽子をかぶりました、家の鍵を持ちました、閉めました、ちゃんと閉まってるか確認しました。
そして小走りでアパートの階段を下りました。
*
「ママがね、スマホ買ってくれるって」
「ほんと? iPhone? Appleウオッチとか?」
「うーん?」
「この前の、アップルストアにすっごい並んで買った人いたって。夜中から並ぶんだって。パパの同僚の人も並んで買ったんだって。すごい機能なんだってよ」
「……へー」
友香ちゃんのスマホの話はいつもさっぱり分かんない。
「ママはキッズスマホって言ってたかも。それも夜中から並ぶの?」
「あー。美桜ちゃんごめん。それなら違うわ。でも Discord できるよね?」
「え、なんて?」
「あ、それはだめなんだった。LINE 交換しようね」
「うん!」
よかった。ママは並ぶの嫌いだから「買うのやめた」って言われるかと焦った。
友香ちゃんはリュックからスマホを取り出して「あたしので練習していいよ」って触らせてくれた。
学校のタブレットと違ってぜんぜんラグくない。マンガも読めるし。いいなぁ。これは友香ちゃんちのママのおふるらしいけど、わたしもこういうの買ってもらえるのかな。学童の子が持ってた防犯ベルがついているタイプのだったら嫌だなぁ。
スマホを友香ちゃんに返して、いつもとちょっと違う高い空を見上げた。
「ここの公園、あんま面白くないね」
「美桜ちゃんもそう思ってた? あたしもそう思ってた。あはは」
春休み中に友香ちゃんのママに車で連れてきてもらった時は、人がいっぱいいて、ワンちゃんもいっぱい走ってて、クレープとかタピオカとか売ってて、なんだか楽しそうな公園だと思ったのに。
今は誰もいない。
ベンチがあるだけで、滑り台もないし、ブランコもない。
「今度来るときは、バドミントンもってこようね」
「友香ちゃんラケット持ってるの? いいね、やろうやろう」
「今日はいつもの公園に帰ろうか」
「そうしよ」
立ち上がったとき、どこかでチャリンって音がした。
自転車置き場でポケットに手をつっこんでから、あれ? ってなった。
「ちょっと待って。ない。カギがない」
久しぶりに使う自転車の鍵。メロンパンナちゃんのキーホルダーがついていて恥ずかしかったから外してきた。いまキーホルダーはついていない、ただの鍵。ポケットに入れたはず。おかしいな。
そうだ。
ベンチでお茶のんで、友香ちゃんが変顔で笑わせるからブーッて噴き出して……ハンカチで拭いて……。
あー、さっきの「チャリン」は鍵を落とした音だったかも。
「ちょっと待ってて」とベンチまで走って戻る。
うーん。ベンチの下はクローバーがわんさか生えていて、鍵がどこに落ちたのか、さっぱり見当がつかない。すぐ見つかると思ったのに。
「美桜ちゃん、あった?」
ヘルメットをかぶった友香ちゃんも駆け寄ってきて足元を見る。
「わたし、ここに座ってたよね? それで、こうやって立ちあがったでしょ。だから……うーん。この辺に落ちてると思うんだけど」
しゃがみこんでクローバーをかき分けて探した。友香ちゃんも、そこらじゅうのクローバーをぶちぶち抜いて探してくれた。
「ぬいたほうが見つかるよ」
ちょっとクローバーがかわいそうだなと思ったけど、わたしも真似した。
でも……見つからない。
結構広い範囲をひたすらブチブチ抜いた。むしってむしって投げたクローバーが重なって、さっきより見つけにくくなってない?
友香ちゃんはむしることが目的みたいにガムシャラにむしりまくってるし。
あー。
だんだん太陽が動いて、ベンチのまわりは直接太陽が当たってまぶしい。暑いのか焦っているからなのか、汗が止まらなくなってきた。
やばい。どうしよう。
「美桜ちゃん、ほんとにここで落としたのかな?」
気づいたら友香ちゃんの手はとまってた。
あー。そうか。そうかもしれない。「チャリン」は鍵の音じゃなかったとなると……。
この広い公園で、クローバーだらけの公園で、キーホルダーも何もついていない鍵を、わたし、見つけることができるだろうか。
クローバーの上に座り込んだまま、公園を見渡して絶望的な気分になった。
日差しで暑くてボーっとしてきた。
やばい。まじで。
あー。どうしよう。
しばらく二人でぼーっとした。
ずいぶん前から。分かんないけど、たぶんずいぶん前から、はしっこの日陰のベンチに座ってた男の人が近づいてきて声をかけて来た。
「どうかしたの?」
遠くから見たときは制服を着た高校生くらいの人だと思ったけど、近くで見たら白いシャツに黒いパンツのおじさんだった。ヒゲが生えてる。
「美桜ちゃんが自転車の鍵を落としちゃって」
暑さでぼーっとしてるところに、私がヘマしたって言い方をされた気がして、ちょっと友香ちゃんにイラっとした。
「おうちに合鍵ないの?」
「あ、おじさん、頭いい! 美桜ちゃん、ある?」
友香ちゃんは急に笑顔になった。でも、合鍵なんてあったかな。
「ない……と思います」
「見つからないなら、おうちの人に車で迎えに来てもらうといいよ。電話してみたら」
おじさんは笑いもせず、冷静に言った。
電話してもママは仕事中だからたぶん出ない、でしょ。
家まで歩けない距離じゃない、けど。
うちの車は小さいから自転車を車に乗せて帰るのはムリ、でしょ。
でも歩いて帰ってママに相談するのはアリ、かなぁ。
でも今日自転車で遠くに来たことはできればごナイミツに、したい。
せっかくスマホ買ってもらえるのに、カギなくしたのはまずい。
うーん。どうしよっか。
わたしがなかなか頷かないでいると、おじさんは軽くため息をついて言った。
「この辺で落としたの間違いない? あとは、どこで遊んでたか覚えてる?」
「一緒に探してくれるの?」
わたしより先に友香ちゃんが背筋をピンと伸ばして言った。
「うん、まあ、ちょっとだけね」
静かに言うおじさんに対して、友香ちゃんがはりきって説明し始めた。
「えっとね、入り口からぐるーっと回って、あっちの水道のほう、歩いたでしょ。あと美桜ちゃん、トイレ行ってないよね? むこうのゴミ箱にグミのゴミ捨てに行ったでしょ、あとね……」
おじさんは一生懸命周りを見渡しながら話を聞いてくれた。