残夢【第一章】⑦亀裂
あれは酷く暑い夏だった。ひとり娘の穂乃果が幼稚園の頃。
当時配属されていた署管内の市営住宅の一室から、異臭がする、ポストの覗き穴から人が倒れているように見えるとの通報があり、たまたま近くにいた自分もその部屋に向かうよう指示された。
大家に部屋を開けさせて先に入ったはずの交番勤務の若い警察官は玄関先で立ち尽くし、大家は植え込みで吐瀉しているところだった。
その胃酸の饐えた匂いなど気にならないほど開け放たれたドアの中から異臭が漂っていた。
キッチンの板間にうつぶせで横たわる幼児。その右手には女性の派手なブラジャー。伸ばした左手には茶色く汚れたぬいぐるみ。生存を確認する必要もなく、熱気の籠もった室内で遺体の腐乱が始まろうとしているのは誰の目にも明らかだった。
見渡せば部屋の隅に小さな白いケージが二つあり、ぬいぐるみと思われたそれは、かつてはペットだった何かだと後に判明した。異臭の主な原因は幼児ではなく動物の糞尿や腐敗臭だったのかもしれない。
室内のクーラーは機能しておらず、カラカラと弱く働く室外機が庭の雑草をいつまでも揺らしていた。
鑑識が終わって遺体を運び出したころ、スーツケースを転がして旅行から戻ってきた四十代の祖母が緊急逮捕された。
猛暑日で体中の水分が干からびてしまったのか、取り調べの最中も祖母が涙を流すことはなかった。
その日は鼻の奥に匂いがこびりついて離れないまま、熱気の籠るアスファルトを歩いて帰宅した。
自宅マンションの駐車場に、いつも停まっているはずの車がない。だが窓を見上げると部屋の明かりが漏れている。訝しく思いながら階段を上がり開錠すると「おかえりなさい」といういつもの声で出迎えられる。
早めに切り上げてきたつもりだが娘はもう寝ている時間。静かにリビングに入った。
「素麵でいいかな。今茹でるね」
妻の香穂里がキッチンの明かりを灯す。
食欲はなかったが断る理由を思い出したくなかった。俺は手を洗いながら「車、どうした?」と聞く。
妻の肩が揺れ、上目遣いでゆっくり振り返る。
「ちょっと、ディーラーに」
「まだ車検じゃないよな」
「うん」
目も合わさず食事の支度を続ける妻を覗き込む。
「修理か」
「ごめん!」
妻は目をぎゅっとつぶって明るく謝る。
「また擦ったか」と笑うが、それには答えない。
「まさか人身じゃないよな」
「ちがう、ちがう。数日で戻るから」
電柱か何かにぶつかり、擦った程度ではないキズになったか。ため息を付きながらスーツを着替え冷蔵庫からビールを取り出してダイニングの椅子に腰かける。
「どこでぶつけた。警察呼ぶほどじゃないんだろ?」
念のため確認しておきたい。もしお世話になったのなら交通課に明日ひとこと言っておかなければ申し訳ない。
妻は冷奴や胡瓜をテーブルに運んでから再びガスレンジに向かい合う。そしてやはり目を合わさず「実は」と話しはじめた。観念したように。
その日の妻は、いつも行くスーパーマーケットを通り過ぎ、隣の市の公共施設まで車を走らせた。
駐車場に日陰はなく、車はまばらだった。公園のような設備もあったが外で遊ばせるには危険な気温。わずかな日陰で遊んでいると雨が降ってきたので施設内の展示品を見て回り、しばらくして車に戻る。
「何かイベントでもやっていたのか」
「ううん。特になにも。お年寄りの水彩画とか、書道作品とか」
妻は沸いた鍋に素麺をパラパラと回し入れた。
駐車場に向かうと夕立ちというよりは早い時間におとずれた通り雨がかえってコンクリートをサウナのように温めていた。娘を助手席後ろのチャイルドシートに座らせると自分でベルトを締められると言い出す。ところがベルトの金具に触った瞬間に「あちゅ」と叫んで怒り出した。妻は自分の荷物を座席に置いて何とか宥め、暴れる娘を無理やり座らせベルトを締めた。
あとは何を考えていたのかは分からない。
ただ自分も早く乗ってエンジンをかけよう、走り出せばおとなしくなると思い後部座席のドアを閉めて運転席にまわったが、その途中でガチャリと予期せぬ音がした。
運転席のドアにいつものように手を差し込み、自動で開けようとしたが鍵がかかったまま開かない。
なぜ?
反応が悪いならばリモコンキーのボタンを直接押して開けようと思ったが、気付けば妻は手に何も持っていない。いつも肩からかけているバッグもすべて後部座席にほうりこんでしまったことに気付いた。
鍵もスマホも手元にない。娘が鍵を閉めたわけではない。何が起きているか分からない。
妻はただ、娘を車内に残したまま鍵が開かないことにパニックになった。
娘の手の届くドアはチャイルドロックがかけられていて中からでも鍵は解除できない。走行中にドアが開かないように、わざわざ設定した。時に娘は、そういった危険な悪戯を多分にする子だった。
ベルトを外して他のドアを開けさせるか。でも熱いベルトの金具には絶対に触れたくない娘。隣のシートに手を伸ばしてママのバッグの内ポケットからキーを出して! 必死の形相で伝えても娘には伝わらない。
発達が未熟で癇癪持ちだった娘は座った時から怒っていたし、それが原因で母親に怒られて閉じ込められていると考えたのかもしれない。
何が起きているか理解しないまま泣きだした。叫ぶように。
「ごめんなさい」
「それでどうしたんだ」
今ここで妻が話をしているのだから大事に至らなかったことは分かっている。
そこまで聞いてから娘が寝ている部屋を振り返った。扉はピタリと閉じている。俺はテーブルの上の冷奴に醤油をかけた。
「ディーラーの人が言うにはね、スマートキーの何かによる電波の遮断が原因ではないかって。鍵はいつも身につけるようにしてくださいって」
「当たり前だ。それで点検してもらってるのか」
その後の「うん」が肯定に聞こえなかったので再度聞き返す。
「違うのか」
妻は申し訳なさそうな表情で戸惑っている。
「どうやって開けたんだ?」
妻はとにかく大声を出して助けを呼んだ。人気はなかったが一組の老夫婦が気づいてくれ、「救急か警察を呼びましょうか」とスマホを取り出した。
呼ぶべきかどうか分からず返答に窮していると娘の叫び声で他の人も駆け寄ってきた。
ひとりの男性が自分の車に工具がある、鍵を開ける方法は知らないが窓ガラスを割ってもよければハンマーはあると言う。
大泣きしていた娘は涙と汗でびっしょり濡れ、泣く力も明らかに弱くなってきている。
そもそも日光に照らされ続けている車内は乗った時から非常に暑かった。今も温度が上がり続けているに違いない。施設の人を呼びに行っても対応に大きな違いはないだろう。
妻はすがりつくように叫んだ。
「割ってください。お願い。娘を助けて」
ガス火にかけられた素麺の湯が溢れだし、妻は慌てて火を消した。
「ごめんなさい」
妻が何に対して謝っているのか分からなかった。
車のガラスを粉々にして修理に出していることについてなのか。警察に連絡がいっていたら俺のメンツが立たないと思ったのか。沸騰した素麺の湯を溢れさせたことか。
ガラスを割る判断をしたことは間違いではない。
だが、大勢の人を巻き込んでハンマーで叩き割るまでの事態になったこと、それを俺に言わずに恍けていようとしていたことに俺は無性に腹が立ってしまった。
「何分間だ。どのくらい穂乃果を車内に閉じ込めた」
首をかしげる妻に苛立ちながら箸をテーブルに置くと思いのほか大きな音が響いた。
「医者には見せたのか」
「暫くして落ち着いたから」
「今日のあのクソ暑いなか車内に閉じ込めたんだ。それにガラスも飛び散っただろう」
「ごめんなさい」
「こんな日に何故わざわざそんな場所に行ったんだ。何もやってなかったのに」
そこで妻は目を伏せて押し黙った。
「誰かと会ってたのか」
静かに首を振る。
「何の目的だったんだ」
「何のって」
明らかに怯えたような笑みを見せる。
「まるで……」
一瞬の静寂が流れ、ベランダの室外機の唸り声だけがリビングに響いた。
「尋問されているみたいだわ」
「誤魔化すな。これは単なる質問だ。尋問されているように感じるのは何か聞かれて困るようなことがあるからだ」
妻は言い返すことをしなかった。
私だって意味もなく遠くに車を走らせたくなる日だってある。知らない土地での初めての子育てに精一杯。または身近な人には相談できない悩みもあるなどと、なぜ反論しなかったのだろう。反論することすらできないほど、あの頃の妻は疲れきっていたのかもしれない。
妻は息苦しそうに首をさすった。
娘を心配するのなら何故まっ先に娘の様子を見に行かないの。何故いつも休みの日にまで仕事に出かけ、娘が寝たころ帰ってくるの。何故帰ってすぐに娘の寝顔を見ようともしないの。
妻の声が今なら聞こえる。
働いて家族を養うのがあなたの役目。子供を育てるのは私の役目。家族で分担して協力するってそういうことなの? 結婚にあたっていくつかの約束はした。何事も二人で協力して行こう、とも。決まりをつくり、決まりを守り、無理があれば改善していこう。
でも。
予定通りにいかない。思うようにならない。現実にはそんなことばっかりだった。分担なんて考えなくていい。私への気遣いなんていらない。私じゃなくて娘にもっと、穂乃果をもっと分かろうとして。穂乃果と正面から向き合って欲しかったのに。
二年前の離婚理由は抽象的な言葉で埋めつくされ、俺には妻の気持ちが全く理解できなかった。身を粉にして家族のために働いている俺の何が間違っていたというのか。
何も言わずにただ俯いて「ごめんなさい」だけを妻が繰り返した夏の夜。
ならば、あの夏の夜からやり直そう。あの日は疲れていた。怒ってすまなかった。どうかしていた。そう言って取り戻せると思っていた。穏やかで安定した日々を取り返せると。
本当は、あの日よりもっと前から何年も、香穂里は俺の妻であることに疲れ切っていた。それでも良き妻、良き母を演じていただけだった。
俺はそれに気づかぬまま走り続けて時は流れた。
振り向かずに率先して走り続けることが自分の役割だと思い込んでいた。
振り向けば、後部座席に誰も乗せていないことに気づいたのだろうか。
⑧「教室」へつづく ▶