いかのおすし⑬ 【5時間目】
《美桜》
つかれた。
おばちゃんに「あの赤と白の鉄塔の手前」って教えてもらった時は結構近いと思ったけど、歩いてみたら遠かった。そういや図工で習ったかもしれない。大きいものは近く見える。
自分の分のパンは歩き始めてすぐ食べた。うっかり途中でもう一つ食べた。お茶も一本なくなりそう。
目印の郵便ポストをやっと見つけた。そこを右に曲がったら……青と赤のクルクルが目に入った。
「あったァ!」
小走りで近づくと、まえに夢で見たような白い壁と緑のはっぱがたくさんの。教えてもらった美容院に間違いないと思った。クルクルは回ってないけど。
「わぁ。おしゃれぇ」
さっきまで遠いとか疲れたとか、頭の中で文句言ってたことを瞬間に忘れた。
お店の名前は壁に英語で書かれてて読めない。その文字の下に、カタカナで書いてあるけど、葉っぱが邪魔して半分しか読めない。
「ル……。ルポー……ス? ボーヌ?」
ドアの前は落ち葉が積もってて、ガラス戸をのぞいても中は暗くてよく見えない。シンと静まり返ってる。だれも居ないみたいだし、さっきのおばちゃんたちが言っていた通り閉店しちゃったのかも。
けど、たぶん、きっとアンはここに来た。
右も左も空き地が広がる。
少し離れたところに立つ工場みたいな建物の入り口に、さっき乗ってたのと同じ色の車が止まってる。
「あれかな。あれだな」
わたしは車に向かってダッシュした。
見つけたぞぉ。わたしのこと置いてった、わるーいやつ。覚悟しろー。
心の中で歌いながら車の中をのぞきこんだ。たぶん、間違いなく、中島さんの車。誰も乗ってないけど、ボンネットのぬいぐるみが同じ。
はい。まちがいありませーん。犯人を見つけましたー。
でも……。
工場みたいな建物をそっと見た。
建物はシャッターが閉まってて静か。今日はお休みなんだろうな。雑草がぼーぼーに生えてて、ちょっと怖い雰囲気。
「しつれいしまーす……」
小さな声で、工場の敷地内に足を踏み入れた。
ぴちゃっ、ぴちゃっ。
水たまりがイヤな感じ。ゴミもたくさん落ちてるし。工場の横にまわったら暗くてジメっとしてる。鉄のドアがあった……けど、触ってみても開きそうにない。鍵かかってるのかな。窓が……あちこち割れてる。危ないから近づくのいやだな。ほかに入り口ないかな。
また奥に向かって歩く。
工場の中から声が聞こえた気がして、割れてる窓に一歩近づいた。だけど背伸びしても中は見えない。なんか、カンカン、音がする。
アン、中にいるのかな?
「ア……」
声を掛けようとしたら「痛い!」って叫ぶ声にかき消された。
びっくりした。今の声、中島さん?
「もうすぐ来ちゃうから、頼むから言うこと聞いて。すぐ帰すから。言うこと聞いてくれないと、私が……」
「ウソだ!」
アンの声。怒ってるみたい。びっくりした。どうしたんだろう。
「兄さんのことも、そう言ってだました!」
「知らないって。だれ……」
中島さんの声は、くぐもっててよく聞こえない。
「ミンだよ」
「名前なんていちいち覚えてな……」
アンのお兄ちゃんのこと?
「奴隷なんて番号で充分……」
「奴隷なんかじゃない!」
アンの声は、怒ってる。すごく、怖い。
なんとなく、聞いちゃいけない気がして少し窓から離れた。
――いい国だって聞いてた。だから借金してきた。そんなの知らない、契約…… ちがう! 騙される方が悪いん…… それで仕事キツイとか我儘……家族捨て…… ちがう! 違わない。全部ひとのせ…… ちがう、ちがう! だまれ!
何かを叩く鈍い音がした。怖い。どうしよう。でも……。
わたしはまた一歩、窓に近づいた。
「イッタ……。あんたの兄ちゃんもSNSなんかで簡単に釣られるから悪いんじゃん。楽して稼げると思うなんてバカなの」
「ちがう! 兄さんは、」
「あんたの親が悪いんだから。親の不始末に子供が責任取るの当たり前でしょ」
「家族は助け合うよ。守るよ。でもなんで。なんで兄さんを、あんな……」
「子供がカネ稼ぐの、それしかないじゃん。何言ってんの。せっかく仕事紹介したのに、なんでアンタに文句言われなきゃいけないの。感謝してよ。そのお金で暮らしてるんでしょうが」
「ちがう」
「なんなの、ほんとに。バカばっかり。みんな、バカ」
中島さんは、怒ってるけど、ため息をつくように言った。
「兄さんは、死のうとした」
「カネもらって喜んでたよ。あいつ何でも言う通りやった」
「うそだ!」
「嘘じゃないって! 死にたきゃ死ねよ、どいつもこいつも!」
中島さんの声は耳の奥までキンキン響いた。
でも、怒ってるのに、泣いてる声みたいだった。
「そんな勇気もないくせに……。ばかみたいに、死んだみたいに生きてるくせに……」
中島さんは、また急に叫んだ。
「ざけんなよっ!」
割れた窓ガラスがブルルって震えた気がした。
「自分で稼げるようになってから言えよ……。食わせてもらってるんだから文句言うなよ……」
中島さんは、泣くように言ったあと、急に優しい声に変わった。
「殺したきゃ殺せよ。どうせ、私はもう……とっくに死んでるんだから」
中は静まり返った。
背後で「びちゃっ」と音がした。
「そこでなにしてる」
ひっ、と息をのんで振り返った。半分白髪の、知らない太ったおじさんが立ってた。
やばい。ここの工場の人かな。勝手に入ったって怒られちゃう。
「おまえ、だれだよ」
あ、あいさつ……しな……きゃ。
スーツを着た、ちゃんとした、どこかのお父さんだと思うけど。なんか、目が怖い。ジロジロわたしのことを見て、鼻で笑った。
「お前じゃ、ダメだな。捕まっちまう」
おじさんに腕を強く掴まれて、ひっぱられた。
「イタ……」
おじさんは、わたしをずるずるひきずって、さっきの鉄のドアの近くで急に投げるみたいに腕を離した。
わたしはぶんっと飛んで、地面の水たまりに手から落ちた。
「ぁイタッ……」
あぁ。手も膝もいたいし、スカートが泥だらけ。
いっしゅん、地面が真っ暗になったから夜になったかと思った。
違った。おじさんが、わたしの体におおいかぶさるように少し屈んだ。
「今日、ここに来たこと誰にも言うなよ」
ゆっくり振りむいたら、めっちゃ怖い顔で睨んでる。
顔をぐんと近づけてきて、もっと睨まれた。
「言ったら、殺すぞ。お前と、お前の母ちゃんも」
おじさんくさい。くさいしこわい。
これは、まちがいなくヤバイ人。ぜったいダメな人だ。
知らない人だし。こ、殺すって言ったし。
何かあったら……あ、防犯ブザー。あぁ、ランドセルにつけっぱなし。お、大声……そうだ、大声。ど、どうしたんだろ。大声って。声って。どうやって出すんだっけ。ノドがカラカラで、どこに力を入れたらいいのか、よ、よく分かんない。
わたしが四つんばいで、水たまりからなんとか這い出ると、おじさんはポケットから鍵を出して鉄のドアを開け始めた。
は、はやくここから帰らなきゃ。
あ、でも、アンは、どうしよう。
ドアの開いた ギィィィィ って音にびっくりして振り返った。
ドアのすきまから、床にころがってる何かが見えた。
え。だ、だいじょうぶかな。
あれは、あのヒラヒラのワンピースは、中島さん。
可愛く編み込みしてた髪がほどけて、顔がよく見えないけど。
「おい。アキラ、どういうこ……」
トゥルルルル。
ドアの中から携帯電話の鳴る音が響いた。おじさんが中に入ってドアが閉まるとき、びゅんって。何かが風を切るような……。ガツンって何かが、ぶつかるような……。叫び声……とか。たぶん、アンの、アンの叫び声、とか……。
トゥルルルル、トゥルルルル、トゥルルルル……
工場の中から、携帯の鳴る音がずっと響いて聞こえてる。
知らない人についていかない。そんなの分かってる。
困っている人には親切に。それも分かってる。
「でもちょっと怖いおばあさんだったよ」
――こらそんなこと言わないの。
「あの人、だれ」
――お世話になってるんだからちゃんと挨拶して。
「おやつどこ」
――そんなことで電話しないの!
――変な人に決まってるでしょ!
――何度も教えたよね!
――ばかっ!
なんでだろう。
なんでこんなときに、ママに叱られたことを思い出すんだろう。
どうしたらいい。
どうしていいのか、わかんない。
ママ、ごめんなさい。ごめんなさい。どうしよう。
「す」は何だっけ。
「し」は何だっけ。
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