残夢【第二章】⑥~ひろ子~
クリスマスの何が楽しいのかずっと分からなかった。
そんな私にお母さんは「今年のクリスマスは楽しいはずよ」と赤い三角屋根の写真が載ったイングリッシュセミナーのチラシを私に手渡す。「連絡しておいたから」。夏休みにも通ったそのセミナーの先生はお母さんの友達の友達。お母さんは先生に挨拶だけして私をお祖母ちゃんに任せて前崎の家にひとりで帰るつもり。今回も。お腹が痛くて学校を休んでるのに長野のお祖母ちゃんの家にさっそく連れて行かれてお祖母ちゃんの家からお祖母ちゃんの車で毎日ハウスに連れて行かれる日々が続く。「夏休みも楽しかったでしょ?」何も知らないお母さんがほほえむ。楽しいのか楽しくないのか自分でも良く分からないままお祖母ちゃんの運転する車に乗りこみ熱すぎるエアコンの風にのぼせて夏休みの記憶だか幻だか分からない夢の中に落ちていく。
先生は美人で優しい。先生の娘のカナさんも英語が上手。あの頃のカナさんは正義感の強いかっこいい人。東京や大阪から可愛い小学生もたくさん来ている。英語を理解するには英語を話す国の文化を知ることが大切と言って先生は私たちに色々な事を教えてくれる。家の中でも靴を履くとかナイフとフォークでご飯を食べるとか子どものころからピアスをするとかレディファーストという習慣とか女性の政治家が多いとか、差別と闘う独立した大人の女性が多い、だとか。
そして私たち女の子を「素晴らしく価値がある存在だ」と言う。もっと褒め称えられていいはずだ。もっと人生を楽しんでいいはずだ。悪いところはひとつもない。我慢することはひとつもない。日本人の考えが悪い。制度が悪い。政治家が悪い。男が、悪い。
みんな美味しいお菓子を口いっぱいに詰め込んで目を輝かせて先生の勧めるビデオを見る。参加人数はだんだん減るけど楽しい毎日。都会から来ている子はオノダの送迎で軽井沢のホテルに泊まる。近くの小中学生は歩いて帰る。私はお祖母ちゃんの家に帰るためお祖母ちゃんのお迎えの車を待つ。あの日はお迎えがなかなか来なかった。
お母さんから先生に電話が入る。お祖母ちゃんが怪我をして入院したと知る。夜も仕事で迎えに行けない。先生の家に数日泊めてもらいなさい。不安なんてない。オノダの作る料理はお母さんのと違ってとても美味しい。泡いっぱいのお風呂に一人で入る。ドレスのようなパジャマを貸してもらう。お姫様になった気分で寝る前にバルコニーでアイスクリームを食べながら先生に星座や神話を教えてもらう。
先生の娘のカナさんのあだ名は「アルテミス」。美しくて強い女神の名前。でもその名はカナさんだけのものではなく優秀な人に与えられるもの。誰でも頑張ればその名を引き継ぐことができる。だからあなたも頑張ってと先生は優しく頬を撫でる。先生は自分のことを「ヘラ」と呼んでいいと言う。一番偉い女神様。ただし「ヘラ」の名は気軽に人に教えてはいけない。特別な仲間にだけ教える呼び名。軽々しく使うと神聖なものが穢れる。好きな人との秘密は好きでしょう? お祖母ちゃんとの秘密。お母さんとの秘密。秘密はあなたを守る。秘密があれば強くなる。私はその秘密を大事に胸にしまって花の香りのするふかふかベッドでぐっすり眠る。これなら何日でも泊まりたいとその時は思いながら。
「ひろ子、もう着くよ」
運転席のお祖母ちゃんに声をかけられて目が覚めた。ぼぅとしたまま窓の外を見ると、林の中で黒い影がサッと走った。
クマ? 怖くて咄嗟に頭を下げ、少しだけ頭をあげて外を覗く。
人間だ。男の子。
この車が通り過ぎるのをジッと見ている。睨みつけるように。
お祖母ちゃんの運転する車は、砂利の音をバチバチ立てながらハウスの敷地内に入った。後部ガラスから林のほうを振り返ると、男の子が林の中から少しだけ顔を覗かせて周りをキョロキョロ見渡していた。
あの顔には見覚えがある。
夏休みに山で迷子になった時、自転車に乗せてくれた男の子。間違いない。
急に甘酸っぱい匂いが広がって胸がきゅんとした。
あの時、おうちどこって優しく聞いてくれたとき。本当はお祖母ちゃんちに帰りたかったけど上手に説明できなくて。それに、お祖母ちゃんは入院していて家にいないって思い出したから。
だから、またハウスに戻るしかなかった。逃げてきたはずなのに。
自転車の男の子がシャツを脱いだ時、汗の匂いがふわっと届いた。あんないい匂いは初めてだった。
お母さんに言われているように、なるべく男の子の身体には触らないように気をつけても、ガタガタ道だからしょうがなかった。
何年生か分からないけど、背中が大きくて。汗ばんだ肌は、私が見たことあるものと全然違って。肩にある黒い汚れと思ったものは、ホクロだった。
先生から教わったオリオン座と同じ形で並んでた。
「ふふ」
「ひろ子、どした?」
「なんでもない」
私はまた窓の外を見た。あの男の子が、なぜハウスに来たんだろう。
何かをお腹に隠して、山を走り降りて行った。逃げるように。
お祖母ちゃんがサイドブレーキをひいてエンジンを切った。山が静かに私を見下ろす。
「今日は車が少ないな。まだ誰も来てないんか」
ハウスを眺めながら、お祖母ちゃんが私に聞いた。
そうか。まだ冬休み前だ。今日のお泊りはきっと私だけの特別レッスンなんだ。
「明かりがついとらんな。先生も誰もいないかもしれないよ。ひろ子、ちょっと見ておいで。ばあちゃん、まだ帰らないでここで待っとるから」
言われた通り、車を降りて入り口へ向かった。扉は開いていた。カナさんの黒いスニーカーが脱いであるけど、中はシンと静まり返っている。
扉を半分開けた私の手が止まった。
何の音も聞こえないけど、きっと奥の部屋に入ったら聞こえてくるに違いない。
ヘラ様の笑い声と、オノダの呻き声が。
自分の喉が締め付けられたように、急に息苦しくなって足が竦んだ。耳の奥で音が響いて、目眩がして、ガラスの扉にもたれかかった。
目を瞑ると、夏の夜が蘇る。
あの日。不思議な音で目が覚める。小さく聞こえるクラシック音楽ともうひとつ別の音。風? ヒューヒューと鳴る。ビシュッという激しい切り裂き音。でも窓の外の樹は動いていない。満月が美しい夜。星が美しく瞬いている。何の音だろう。ベッドから降りて部屋のドアを開ける。
一階のステレオから流れるクラシック音楽が大音量に変わる。あのティンパニーの音は先生がよく聞かせてくれるショスタコーヴィチ「革命」第四楽章。英語圏の人の曲ではないと初代アルテミスが馬鹿にしていたけれど先生は大好きな曲。速いリズムで気持ちが急かされる。先生の笑い声が聞こえる。吹き抜けになっているリビングをそっと見下ろす。
何が起きているのか分からない。先生は白いレースのドレスをひらひらさせて笑っている。オノダかどうか分からない誰かが床に伏せている。顔が見えない。でもこの家には先生とオノダしかいない。ティンパニーの音が心臓に直接響く。暖炉の火がバチバチと音を立てて大きくうねる。火の粉が高く飛ぶ。全て焼いてしまいそうな勢いで。
テレビで見たサーカスだ。編み上げの黒ブーツをはいた人がライオンや熊に向かって鞭を打つ。ライオンは火の輪をくぐり熊は玉に乗る。そして地響きのような雄叫びをあげる。でもここには火の輪も玉乗りの玉もない。ライオンや熊とは違う四つ足の生き物がいる。顔が黒くて胸は毛で覆われて背中は白くて尻や足は黒く光る。鞭で打たれるとくぐもった鳴き声をあげてお尻を震わせる。誰かに追われているような演奏。白い肌は赤いミミズの這った跡。笑う先生の手元で突風のような音がまた響く。
「ひっ」
痛そうに見えて声をあげる。先生が私に気づく。四つ足の生き物も私を見あげる。その異常な顔に再び声が漏れる。
「ひぃっ」
四つ足の動物は真っ黒い鼻のゾウ。違う。バクだ。違う。四つ足ではなく四つん這いになって先生にひれ伏す生き物。顔と足は黒くヌメヌメ光るビニールでピッチリ覆われている。まん丸のガラスの目とバクみたいな鼻。太い縄の首輪。音楽は一瞬の無音。四つん這いの鼻からシューシューという呼吸音だけが響く。泣き出す直前の赤ん坊のように激しく体を震わせ先生の足元にしがみつく。先生は堅い爪先で赤ん坊を蹴り返す。先生の視線は私に向けられたまま、鞭を大きく振り上げる。
シャーン
シンバルの音と重なった大きな破裂音。四つん這いは背中を大きく上下させ顔から漏れる音のリズムは一段と早くなる。シュッシュッシュッ。音に合わせてマスクの頬が僅かに膨らんだり凹んだりして中から低い呻き声が漏れる。ンンンンンーッ。汗か涎か分からない。首筋にねばついた液体がつたって流れている。先生はもう一度ゆっくり鞭をふり「男」の首輪を強くひく。
ンアアグアアーッッ
「革命」は急にゆったりした曲調に変わって草原に風が吹くような穏やかな音に包み込まれる。先生は嬉しそうににっこり笑う。そして私に向かってゆっくり手招きをする。おいで。私は階段をひとつずつ降りる。膝から崩れ落ちないよう手摺に掴まる。だけど掌の汗でヌルリと滑る。でも先生の言うことは、いつも正しい、から。ひとつずつ降りて、先生に近づく。先生は、私に向かって手を、差し伸べる。私は、すべて先生の、言うとおりに。鞭を、そっと受け取って、強く握りしめる。
ハープの弦を弾く音が僅かに心を刺激する。
トクン
心臓が跳ねた。
*
私は夏の日に何日も続いた悪夢を思い出す自分が怖くなって、そのまま玄関を出て後ろを向いた。
クリスマスのプレゼントなんていらない。アルテミスの称号なんて欲しくない。あんなこと二度としたくない。
お祖母ちゃんの車に走って戻った。
「開いてない。入れなかった」
「そうなん?」
「帰る。帰りたい」
お祖母ちゃんは、そうかいと言ってエンジンをかけ車を発進させた。心配そうにバックミラーをチラチラ見て私に話しかけるけど、私はまともに話ができない。息が苦しい。
車が麓に近づくにつれて気持ちが落ち着いてきた。大きく息を吸って、吐いて、やっと声を出す。
「お祖母ちゃん、山の上は空気が少ないんだよね」
「そりゃ富士山とか高い山の話だね。こんな低い山で空気が薄いワケないさ」
そうなんだ。じゃあ、なぜあんなに苦しくなるんだろう。
窓を少し開けて外の空気を吸った。冷たい風が気持ちいい。
車が石の橋を渡り終わるとき、さっき走っていった男の子が、河原にしゃがみ込んでいるのが目に入った。
「あ、とめて!」
お祖母ちゃんは、なんで、と言いながらゆっくりブレーキをかけた。
「忘れもんか?」
河原の男の子をじっと見る。男の子はこちらに気づかずに、一生懸命何かしている。
洗っている。さっき、手に持っていたものを。
こんなに寒いのに。川の水は冷たいだろうに。
透明の川の水がサラサラ流れていくのを見届ける。サラサラの中に、どす黒いドロドロのものが流れていくのを確かに見た。男の子もそれに気づいて眺めている。男の子の目が光る。とても怖い顔をしている。怖くて苦しそうな顔をしている。
私はなんだか怖くなった。怖くて、心臓がキュッとした。
「なんでもない。帰ろ。早く帰ろ」
お祖母ちゃんは、そうかい、と言って車をゆっくり発進させた。
あの男の子ともう一度会って話がしたい。体に触れたい。美しい汗をかいた小麦色の背中にそっと触れたい。揺れる自転車でお腹を掴むとくすぐったいのか、ビクッと震えるのを、また試したい。
会いたい。
でも、もし。もし今あの子に会いに行って、あの男の子の顔を近くで見たら。
目を閉じて想像してみる。
私はあの男の子の笑顔じゃなくて、もっと違う表情が見たくなってしまいそうで怖い。あの綺麗な肌の男の子の、苦痛に歪む顔が見たくなってしまいそうで、怖い。
車は平坦な道を走り続けた。
男の子の歪んだ顔を妄想すると動き出しそうになる中指を必死で抑えていた私は、そのときまだ、知らなかった。
ヘラ様とジョン・オノダと、初代アルテミスが、その山の家で既に死んでいたことを。
【第二章】~終~
【第三章】①「真相」へつづく ▶