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B面:逃げる夢 《#シロクマ文芸部》

逃げる夢だ。これは夢に違いない。
そう思いながらもひたすら逃げる。でも、逃げても逃げても逃げきれない。追われ続ける。助けを呼ぼうとスマホを取り出し震える指でロックを解除しようとしても上手くできない。思った通りの番号が押せない。間違い電話をかけてしまう。このままでは捕まってしまう! まずい。逃げろ、逃……

「……げろぉっ!」

夢か。夢だ。よかった。
誰も追ってなんていない。逃げなくていいんだ。

叫び声とともに飛び起きた俺は、荒かった息をゆっくり整える。
壁の時計を見ようと目を凝らすが暗くて見えない。薄いカーテンからは仄暗い光しか入ってきていない。まだ夜明けには遠そうだ。

喉元にべったりついた汗を素手で拭き取ると隣から声がした。
「……どした? 吐きそう?」
寝てると思った彼女がパッチリ目を開けてるのに気付き、思わずびくりとする。
「あ、いや。夢」
「ふうん」
彼女は、さして興味もなさそうに言って目を閉じる。間を置いてから「ゲロってなんだよ」と思い出したように呟いて背中を向けた。

また静かな夜に戻った。
遠くの環状線を走るバイクの音だけが耳に届く。

ごめん。


横になっても眠れそうにない。
先週からずっと、毎日。毎日、同じ夢を見ている。この焦燥感はなんだろう。明日は大事な日なのに。いや、もう今日か。
俺は何から逃げているんだ。追っているのが誰かは分からない。振り返っても何も見えない。暗闇しか無い。なのに、なんで逃げるんだ。俺は。

カーテンの隙間から見える、満月でも三日月でもない、名前のわからない歪な月が雲に隠れる。

俺は昔からプレッシャーには弱いほうだった。
体育委員が選手宣誓をするって知らずに委員になった小6の運動会、校長の挨拶とPTA会長の挨拶と、準備体操のあいだも、2年生の妖怪体操第2が始まってもずっと下痢でトイレから出られず怒られた。ほんとに止まらなかったって言っても誰も信じてくれなかった。

止まらなかったといえば中学1年のクラス対抗大縄跳びも。練習ではB組といつも張り合って本番で勝てるかもと感じた回数からずっと鼻血が止まらなくて。そのまま飛び続けて優勝するにはあと1回たりなかったけど、校庭の血溜まりは暫く消えなくて伝説となった。

伝説と言えば、高校2年の文化祭でコントの脚本担当だった俺が季節外れのインフルB型にかかった山田の代役で舞台に立つ羽目になったときも。舞台袖で転んで前歯2本欠けて、掴みはオッケー、神降臨、伝説の文化祭だってみんなに褒めそやされた。

いや、それはプレッシャー関係ないな。

そうだ。いつの間にか多少のプレッシャーは楽しく感じるようになった。興奮して眠れない。絶対明日は楽しい。きっとうまくいく。台風が近づいてるみたいな。世紀末に恐怖の大王が降ってくるみたいな。そんなワクワクで眠れなかった日が。彼女と付き合い出した高校の頃の俺が。
懐かしい。

そうさ。あの頃は無責任に興奮してりゃ良かった。プレッシャーを乗り越えられなかったとしても、自分がダメな奴だとガッカリされれば終わり。それで済んだ。

一週間前からのプレッシャーはなんなんだ。

先週の日曜、彼女が俺に言おうかどうしようか悩んで言わなかった言葉があった。それが何だか俺は気づいてしまった。だから、なんで言わなかったのかも、俺には分かった。たぶんだけど。

だから明日が、「最後の挑戦だから」。

俺は囁くように言い、彼女の布団を首元まで引き上げて、そっと掛ける。
明日のオーディションでいい結果が出たとしても、それで食っていくことはきっとできない。だから夢を追うのもお終いだ。

俺を追いかけてきたのは、俺が逃げてたのは「現実」だ。「現実」は暗闇で顔がない。いや、見ようとしてなかったんだ。俺が。もう逃げるのをやめて、立ち止まって、目を開けて、しっかり見よう。
そしたら、逃げまわる夢なんて見なくて済む。

すやすやと寝息を立て始めた彼女の髪をそっと撫でると、何か喋っているのが聴こえたので耳を近づけた。
「……あ……んなよ」

え?
もしかして今、あきらめるなって言った?

彼女の瞼を見つめ直し、もう一度耳を近づけると、彼女は再度ささやくように言った。

「……ひとんちの冷蔵庫……勝手に開けんなよ……」

なんだよ。ふかわネタかよ。

くっくっと口元を抑えて笑う。
笑いってやつは、我慢しようとすると余計に笑いたくなる。つまんないネタでも夜中は意外に破壊力あるな。だ、だめだ。涙でてくる。
俺は口元を二の腕で必死に抑えて泣いた。

ごめんな。

一週間ずっと、悩んでたんだろ。
言えなくて辛かったんだろ。

俺もこんなプレッシャーかかると思わなかった。ちっちゃい男だって改めて分かったけど。でも、おかげで将来を真剣に考えたし、覚悟も決まった。

親になる。
守るものが増えるって、すごいプレッシャーなんだな。

俺、今度は負けないから。

雲間から再び歪んだ月が顔を出す。
まぶしくて、興奮して、眠れそうにないや。
そう思いながら、俺はエリちゃんの隣で深い眠りについた。

(了)


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