断たれた指の記憶 《#春ピリカグランプリ個人賞受賞作》
「じいさん、天国でゆっくり休んでな」
祖母は優しく声をかけ、そっと棺から離れた。
火葬場の係員が点火ボタンを押す指先を、私は直視できなかった。
親が離婚してから、私はよく祖父母の家に預けられた。ピーマンも食べろなんて言われないし、玩具を片付けなくても叱られない。
だけど心地よい記憶の中に、僅かに抜け落ちたパズルのピースがあるような気がして、時折指先がむず痒くなる。
祖母が居ない日曜。
祖父と二人きりの曇天。
かくれんぼしようと言い出したのはどっちだったか。
農具置き場の蔵。
開いたままの鉄扉。
その裏に隠れ、私を探す祖父を蝶番の隙間から見る。
「コッチだよ」
隙間の向こうの祖父と目が合う。
祖父は私の体に触れようと、その隙間に指を伸ばす。
突如、勢いよく閉まる扉と耳を塞ぎたくなるような呻き声。
遠くから響くサイレン。
「あたし地獄におちる?」
病院の待合室で泣きじゃくる私に「お前は悪ぐねぇ」と、祖母は何度も頬の涙を優しく拭った。
あの日の記憶は断片的だけれど、その指がとても温かかったことは覚えている。
指を失った祖父が部屋に籠りがちになり、認知症になるのに時間はかからなかった。
数年間、祖母は施設に頼らず介護したけれど、先日、祖母の目を盗んで食べた大福を喉に詰まらせ、祖父は帰らぬ人となった。
「骨上げの時間よ」
母に呼ばれ、慌てて皆の待つ収骨室に入った。台の上の姿に思わず息をのむ。
頭蓋骨、肋骨、腸骨、大腿骨……人間そのものの形状。
右手の2本、第二関節から先のない、そこに確かに祖父がいた。
精進落としを終え、母の運転で祖母の家まで来ると、暫らくぶりの匂いに鼻の奥がツンと痛んだ。
母たちが喪服を着替え、お茶をいれている間、かつてよく寝泊まりしていた和室にふらりと足を踏み入れた私は、当時のまま棚に並ぶ絵本に懐かしさがこみ上げた。
その中の一冊、「地獄」という赤い表紙の本を手に取り、薄汚れた押入れの襖にふと目をやった時だった。
記憶の断片が急速に動き始め、バラバラだったピースが繋がりだす。激しい眩暈に襲われて棚に手をつき、絵本が音を立てて崩れ落ちた。
祖母の入浴中、私の布団の中に伸びてくる祖父の猥りがわしい指。
慌てて逃げる真っ暗な押入れ。
襖の隙間から侵入してくる祖父の穢い指と下卑た笑み。
あぁ、そうだ。
私は何度もそれに耐えた。でなければ地獄におちると言われたから。
生温かい涙が溢れ出して絵本に落ちる。
そしてあの日。
鉄扉の裏からわざと声を掛け、蝶番の隙間へと引き寄せた皺だらけの指。
勢いよく扉を閉め、力いっぱい押さえつける小さな十本の指。
「あぁ……」
全て思い出した私は嗚咽を漏らして座り込んだ。
「早よう気づいてやれんで、悪がったなぁ」
突然の声でハッと我に返った。
赤い花柄の服に着替えた祖母だった。
「でも、もう心配ねえ。ウチが地獄におとしてやったで」
ニンマリ笑い、私の頬をそっと撫でる祖母の指は、あの日と同じように温かかった。
(本文 1196字)
多くの皆様、初めまして。#春ピリカグランプリ、テーマ「指」の応募作品です。どうぞ宜しくお願いいたします。
【追記①】
応募作111作の中から、個人賞である猫田雲丹賞を受賞いたしました。
読んでくださった皆様、審査していただいた皆様、本当にありがとうございました。
副賞として朗読をしていただきました。ぜひお聴きください。
【追記②】
朗読してくださった いぬいゆうた さんが、8月に「配信ウラ話」を書かれています。こちらも併せてどうぞ。いぬいさん、ありがとうございました。