いかのおすし⑯最終話【下校】
《美桜ママ》
美容院に向かって田舎道をひた走る途中で、サイレンを鳴らして後ろから走ってくるパトカーに道を譲った。それを追うようにアクセルを踏みこむ。美桜が血だらけになって倒れている姿が無意識に頭に浮かび、血の気が引く。
やめて。まさか。あの子を助けて。
交差点を曲がると急に視界が開けた。田んぼや空き地が広がる景色の向こう、鉄塔付近に赤色灯を点けたパトカーや救急車がすでに数台止まっているのが目に入る。
あのあたりが彼の美容院のある場所――。
赤信号で急ブレーキをかけジリジリと待っていると、その視線とは別の方向に止まっているパトカーに気が付いた。
美桜だ。
パトカーの脇の電話ボックスの中に、美桜がいる。
咄嗟に窓を開け、大声で叫ぶ。
「みおーーっ!」
美桜が私の声に気付き、電話ボックスの中から飛び出て車道を駆けようとするところを制服の警察官が制止した。
対面する信号が赤になると同時にアクセルを踏み、急ハンドルを切って止まっていたパトカーの後ろに停車した。
「美桜!」
再び叫んで車を降りると、美桜は警察官の隙間から飛び出し、叫びながら両手を伸ばして抱き付いてきた。
「ママー!」
美桜! ママ、ごめんなさい。ごめんなさい。よかった無事で。ああ、ほんとうに良かった。怖かったね。もう大丈夫だよ。ごめんなさい。ううん。よかった、よかった。ごめんなさ……。
強く、強く抱きしめてから体を離し、怪我の状態をぱっと確認する。手のひらと両膝に擦り傷。あちこちで拭いたような血の跡が痛々しい。買ったばかりのスカートは土で汚れているけど、走って抱き付いてきたのだから大きな怪我はなさそうだと分かり、また強く抱きしめる。
本当に無事でよかった。
「塩谷美紀さんですか? この子が塩谷美桜さんで間違いないですね?」
スーツを着た人物が警察手帳を見せて「私はD県警の……」と名乗った。
「そうです。すみませんでした」
車を運転しながら、私は119番通報をしていた。事件が起きているのかどうか定かではなかったけれど、娘と友達が怪我をさせられたと多少大げさに説明し、美容院の場所を伝えた。
その後、アキラさんとは連絡がつかないという折り返し電話をかけてきたあっくんにも美桜から聞いた「怖いおじさん」のことを伝えた。
「それが叔父だったら。公園で一度会った、あの男の子と一緒に会っているのだとしたら、危険だ」と、彼も警察に連絡しておくと言っていた。
「通報でお話されていたベトナム人の男の子のことなんですが」
そう言われて慌てて周囲を見渡し、「アンは?」と美桜に尋ねる。美桜はハッとした顔で一瞬息をとめ、またすぐに涙をぽろぽろ零し始めた。制服の警察官のほうが困ったような顔で私に向かって訊ねる。
「美桜さんが、なかなかお話してくれなくて。早く保護したいのですが」
「保護? 美容院の中ですか。助けられないんですか」
そう言うと今度はスーツの警察官が答える。
「いえ。美容院にも工場にも、子どもはいません」
「いない?」
美桜が再び、私にぎゅっと抱き付いてきた。それを受け止めながら聞き返す。
「あの、中島アキラさんと、おじさんは……」
「ああ、ええ。はい。二人は」
煮え切らない言い方に感じた。
「美桜、アンは一緒だったのよね?」
本当にアンが殺されそうなほどの危険だったのか、何が起きたのか、電話の話ではよく分からないから私も事情を詳しく知りたい。
「美桜さん。そろそろお話してくれないかな。ママも来たし」
制服の警察官が膝を屈めてにこやかに美桜に向かって訊ねた。
アンが無事に逃げられたならよかったけれど、怪我もしているのだろうし、歩いて帰るには無理がある距離だ。
「ママ……」
美桜は小さく震える声で言った。
「この人、ホンモノのおまわりさん?」
「え?」
私にしがみつく美桜の、涙で濡れているのに光を失った瞳が、私服警察官の足元を捉えて離さない。
美桜のその表情を見たら、後ろにいる制服を着た警官も、目の前に止められたパトカーも、この状況がすべて芝居じみているように映った。
「ああ、そうか。そういうこと。だからパトカーにも乗らなかったんだ」
警察官は努めて笑顔で「本物だよ」とあらためて警察手帳を美桜に見せた。
ここまで手の凝った芝居をするわけがない。する意味がない。110番をしてかけつけた警察官なのだから本物に間違いないのに、私も一瞬疑ってスーツ姿の男性を舐めるように見てしまった。
「美桜が110番したから来てくれたんだよ」
警察が到着しても信用できず、電話ボックスの中でひとり震えていたのだろうか。想像して胸が押しつぶされそうな気になったとき、美桜の「……してない」と小さく呟く声が耳に届いた。
してない?
美桜はあの電話のあと110番しなかったのだろうか。かけ方が分からなかったのだろうか。だとしたら私やあっくんが通報しておいて良かった。もう一度かけかたを教えておかないと。
「美桜、何があったか全部話してごらん。大丈夫だよ」
私が顔を覗き込んで優しく言うと、「だいじょう……ぶ」とつぶやき、軽く息を吐いて話を始めた。
去年同じクラスだった、転校したアンと、今日いっしょに遊んでいて車でここまで連れてこられたこと、自分はあとから着いたので工場の中のことは分からないけれど、工場の外でおじさんに脅されて怖かったので、中にいたアンを置いて走って逃げたということ。
「アンの住所や家族のことは学校に問い合わせてください」
私は、通報でも聞かれた美桜の学校名を再度伝えると、警察官は「もう学校には問い合わせています」と言って美桜に次の質問をした。
「アン君の今日の服装は? 背格好……って分かるかな。背の高さはどのくらいかな」
私がずっとさすっている美桜の肩や背中が、わずかに緊張するのが伝わる。
アンは男の子だから髪が短くて、身長はたぶん、わたしと同じくらいです。今日の服そうは、黒いティーシャツとジーパンと白いスニーカーで、赤いアディダスのリュックを持ってました。
美桜がすらすら答えると、後ろにいる警察官がすぐに無線でその旨を連絡している。
「アン君が、どこに行ったか分からない?」
「分かりません。なにも、見てません」
美桜は、脇に停められたパトカーを凝視したまま無表情ではっきりと答えた。
私は再び、美桜の肩と腕を優しくさすった。
美桜の緊張は解けていない。私とも、目を合わせない。
警察官たちの動きが慌しくなった。
私は美桜を抱きしめながら、美桜の敵がどこかに潜んでいないか、強い眼差しで周囲を見渡す。
今度こそ、根拠のない「母の勘」は当たっている気がする。
だけど、今まで何度もその勘を外してきたじゃない。今もきっと外れている。
そう。私は全然ダメな母親だから。子育てもずっと人に甘えて頼ってきたのだから。子どものこと、何もわかってなどいないのだから。
「お母さん、もう少し話を伺いたいのですが、こちらよろしいですか」
警察官は私たちをパトカーの中へと促す。
ずっと抱いていた美桜から体を離して立ち上がると、空が少し近くなった。
徐々に陽が傾き、暗闇を待ちきれないムクドリたちが大木に集まりだしている。
あのムクドリたちは、なぜ集まってきたの。
美桜の何を知って、何を騒いでいるの。
睨みつけてもムクドリは一羽も去りはしない。大空を旋回して、またどこからともなく集まり続ける。
美容院の方から走ってきた無音の救急車が一台、目の前の赤信号で停車した。信号が青に変わって、さっき来たばかりの道を帰っていくのを静かに見送った。
美桜は、何を見たの。何を知っているの。
何を、守りたいの。
ムクドリたちの声が耳の奥まで響く。お願い。静かにして。
私はぎゅっと目を閉じた。
私は必死にこの子を愛して育ててきた。これからもずっと。この子を守りつづける。何も見ていない、まだ幼い、この子を。
私はそっと目を開き、視線の定まらない小さな美桜を見下ろしてハッとした。
違う。
私は唇をキュッと結んだ。パトカーの後部座席に美桜を乗せると、私はドアの前で振り返って警察官に声をかけた。
「すみません」
無表情の警察官が私を見つめる。
「先に、二人で話をさせてください」
警察官は少し困ったような厳しい顔つきで美桜にちらっと目を向ける。
「お母さん、実は……」
「お願いします」
私は強く言って頭を下げた。
「まずは私が、娘の話をちゃんと聞いてあげたいんです」
警察官は一瞬躊躇して、それから小さくうなずいた。
私がパトカーに乗り込むと外からドアが閉められる。
ムクドリたちの騒ぐ声も何も、もう私の耳には届かない。
これでいい。
私は、美桜の瞳を正面から見つめた。
(了)
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