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残夢【第一章】④少年

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あと何年何か月。
夢の中の少年が指折り数えて立ち尽くしている。少年は焦っている。
あと何年何か月。
川が勢いよく流れるように少年の足元を日々が過ぎ去ってゆく。
あと何年何か月。
成長した青年が数える指から目を離すと大きな瞳が現れる。
「逢いたくて。あなたに」
化粧気のない黒い瞳だけが青年に対峙している。青年を飲み込むように。
「あなたは私のヒーロー」
スーツを着るまでに成長した男はあと何か月か数えるのをやめて訊ねる。
なぜだ。どこで会った。何の話だ。
「覚えてないの?」
「忘れるわけないわ。忘れてるわけがない」
そして女は再び静かに言葉を吐いた。
「忘れていい、わけがない」
靴底を擦り減らして歩く中年男は、もう指を折っては数えない。焦る必要はない。
ただ、振り返らず歩き続けるしかない。覚めない夢の中を。
 
 
悲鳴のような音を耳底に感じて目が覚めた。薄暗い明かりの中で息を整え瞳だけ動かして周囲を見渡す。
「悲鳴」の犯人はおそらく自分だ。隣で気持ちよさそうに寝息を立てている夏未が目に入りホッと溜息をつく。
 
九畳一間にキッチンとリビング、寝室を詰め込んだような夏未のアパート。シングルベッドの脇のローテーブルには食べ終える前のシチュー皿やビールグラスが置かれたままだった。
夏未を起こさないようにそっとベッドから滑り降りグラスに残っていたビールを喉に流し込む。昨夜はあれほど俺を満足させた銘柄のビールもたった数時間ほおっておいただけで酷く不味いものになる。食材に限らず何だってそうだ。輝く一瞬を逃せば手に負えないほどの苦い後悔しか残らない。
 
グラスを持って流しへ向かい浄水器の水を注いで後悔だらけの喉に勢いよく流し込む。雑多な小物が並べられたカウンターの上に置かれている夏未のスマホが何かの着信ランプを灯し天井まで緑色が反射点滅している。
 
昨晩はむしゃくしゃした気持ちのまま夏未を抱いた。
程よくとろみのあるホワイトシチューがうっすら残る唇。恥ずかしそうにそれを舐める夏未と目が合い、彼女のスプーンを取り上げラグに押し倒した。
「ちょっと待って、やだ」と笑う夏未の言葉を遮り、柔らかい髪や頬を強く撫でた。
同意の上での行為だがアルコールの抜けた今では口の中にざらりとした感触が残る。
 
俺は再度グラスに水を注いで飲みほした。
もうひと眠りしようとベッドにそっと近づくと、夏未がうっすら目を開け手を伸ばす。
 
「なんか着信あったね。ちょっと取ってもらってもいいですか?」
俺はカウンターの充電ケーブルを抜いて夏未に差し出しベッドに潜り込む。
「ラインだ。姪っ子から」
興味なさそうな声のわりに画面をスクロールしてじっくり内容を吟味している。
「見て、かわいいでしょ。姪の芽衣」
スマホ画面に目をやり、すぐに夏未の顔に視線を戻してふっと笑いかける。
「年賀状の候補から漏れた写真一覧だって。修学旅行、小学生最後の夏休み、小学生最後の運動会。小学生最後のゴリ押しだね。ふふ」
ピンチアウト、ピンチインを繰り返しながらスクロールを続ける。
「これは運動会で応援団長やったときの写真だって。女で団長つとめるのは初めてだって書いてある。時代だね」
「詰襟でも着てるのか?」
「さすがに小学生でそれはナイ。ハチマキと法被」
俺は夏未の差し出したスマホ画面に再度目をやる。
「懐かしい。小学校の運動会でさ、榛名、赤城、妙義って山の名前の団に分かれてるのは群馬だけなんだってね。姪っ子のピンクの法被がかわいい。そんなのなかった。都会はいいなぁ」
「うん? 俺は違ったな」
「あ、堂森さんは東京出身だったか」
「生まれは埼玉で、小学校のほとんどは群馬だった」
「それで中学から東京だっけ。なのにわざわざ群馬県警に?」
「ああ」
 
父はいわゆる転勤族で水力発電に関わる事業で群馬県に転勤となった。子どもの頃に田舎住まいできる貴重な体験だと、その数年間は家族一緒に転居したが、中学で東京に転居して以降は、父には単身赴任をしてもらったと母は言う。母には、田舎暮らしがなかなかきつかったようだ。
その本音は俺が群馬県警に入ると言った時に初めて明かされた。
 
俺は、わざわざ数年しか住んでいなかった土地を故郷と称して働いている。それほどこの地域を愛している、この県に尽くしたいと公務員試験で強くアピールしたことを思い出した。
もちろん試験に受かるためのリップサービスでもある。だが小学生の頃、この県で出会った警察官に憧れたのも事実だ。その人はじっくりと子供の話を聞き、安心させてくれる優しい瞳を持った人だった。
それが髪の長い女性警察官だったことまで話せば不純な動機だと思われそうであまり人には言ってはいないが。
 
「どのへん?」
俺は懐かしい山々を目の前に思い浮かべて静かに答える。
「村島市。そういえば小学校の運動会は親も一緒に競技をするくらい小さな学校だった。山の中を走り回ったり、川に飛び込んだり」
「へぇ。超田舎。村島市ってそんなだっけ」
俺がスマホから目を離して無表情で顔を天井に向けると夏未は「田舎とか言ってごめんなさい」と小さく謝った。
「いや、ド田舎だったよ」と俺は慌てて話を続ける。謝らせるつもりは微塵もなかった。
「合併して村島市になった」
「そうなんだ。もともとなんて市? 町?」
 
薄暗いライトの明かりで壁掛け時計の針を探す。
四時。もうひと眠りついてからいったん家に帰って着替えたいと、俺はあくびをかみ殺した。
 
「なに村?」
「そんなこと聞いてどうする。尋問されているみたいだ」
 まだ少し眠りたい。
「やだ。田舎扱いしたって怒ってるの」
怒っているわけではないが小さく拗ねた夏未が可愛らしく感じて敢えて背中を向ける。
 
「ごめんなさい。でももっと堂森さんのこと知りたいよ」
夏未はそう言って俺の右肩を優しく撫でた。
 
夏未の冷たくて柔らかい指先が、俺の背中から肩へ、肩から背中へ。自分では滅多に触れない場所をハープでも弾くように数本の指が行き来する。
 
「オリオン座」
何を言い出したのかと目を開くと続けて肩を一本指でグイと押し「ベテルギウス」と言う。たまらず振り返って「何の話だ?」と訊ねた。
「ふふ。振り向いた」
夏未は、してやったりという顔を向ける。
「堂森さんの、ここ」
夏未が指をさした俺の肩を見ようと首を捻るが何も見えない。
「見えないでしょ。教えてあげようか? 堂森さんの知らない堂森さんのこと。ここのヒミツ」
「痛い痛い。爪は立てるな。そこに何がある」
「ホクロ」
夏未の指の腹が俺の肩の後ろを優しく上下する。
「ほら。三つ並んでオリオン座みたいになってるでしょ」
なってるでしょと言われても自分では見えない。だが以前、別れた妻にも似たようなことを言われた記憶はある。
 
こんな場合は初めて知ったという顔をすべきなのかどうかは分からない。いやホクロの場所は肩なのだから誰も知らない秘密でもない。
そう言えばユーチューブ動画に写り込んだ俺の着替えでも背中のホクロが映っていた。
「その斜め上に、少し大きなホクロ、ここ。ベテルギウス」
それは初めて言われた。星の名前は聞いたことあるが、いつどこに見られる星なのかはよく知らない。
 
「星座に詳しいのか」
「このくらい誰でも知ってるよ」
「そうか」
「オリオンの右肩に輝く一等星が、ベテルギウス」
「オリオンはどんな奴だったか」
「巨人の狩人。力自慢が過ぎるから女神にサソリを送り込まれて死んでしまったの」
 
力自慢が過ぎる?
そういえば、冬の星座のオリオンは夏のさそり座から逃げているという話は聞いたことがある。女神に殺されてしまうような男だったのか。
 
「でもね、オリオンの死因については別の説もあるの」
夏未はおかしそうに笑い、神話を語りはじめた。
 
 オリオンはポセイドンの息子。とても美形で腕のいい狩人でした。力が強くて、でも乱暴で、そして女好き。いろんな女神さまと恋のいざこざがあったようです。
  
「ふふ」
まるで、俺がそうだと言わんばかりに夏未が俺を見て笑う。
  
狩と月の女神、アルテミスとは恋仲にありました。ところがその兄アポロンには反対されていました。兄はなんとかして二人を引き離そうとします。
ある日、はるか遠くの海を歩いているオリオンを見つけてアルテミスを呼びます。
「あの輝く星を弓で射られるか? いくら狩りの女神でも無理だろう」と煽ります。
アルテミスは「できるわ」と言って自信満々で矢を放ち、見事射貫きました。
それがオリオンと知らずに。
  
「なるほど悲劇だな。オリオンは気の毒な男だ。毎年サソリには追われて逃げるし。女からしたら『いい気味』か?」
「ううん。自分の腕を披露したくて愛する人の命を奪ってしまったアルテミスの方が可哀相。能力が高いばかりに愛する人を失ってしまうなんて」
「そういえば夏未も射撃は得意だったな」
「そうよ。県の競技会で個人準優勝ですから。堂森さんのアルテミスも腰打ちでギッタギタよ。ふふ」
 
夏未は去年の県の警察拳銃射撃競技大会の女性部門に出場して準優勝の結果を残した。競技は三種目あるが、腰から拳銃を抜いて一つの的を五発撃つ「腰打ち」競技で満点をとるほど得意だと何度も自慢している。
 
「そういえばベテルギウスも何年か前にニュースになってたね。輝きを失ってしまったって。何百光年も離れた星でしょ。今見えている星は、実際はもう爆発して消滅してしまっているのかもしれないとかなんとか。そういえば今どうなってるのかな」
 
オリオンはどの説でも女神によって命を落とし、太陽より大きい星ベテルギウスももう存在していないかもしれない。
 
「面白い話をありがとう。自分の肩の上のことなのに何も知らなかったな」
「ふふ」
夏未が笑って肩に隠れる。俺は仰向けになり腕を夏未の肩に回した。
「今度は堂森さんにお話をしてもらっていいですか」
「なんの話を? 物語は語れないぞ」
 
「うーん。たとえば、そう。剣道の話。堂森さんは、いつからやっていましたか」
夏未が嬉しそうに、眠たげな上目遣いで質問を始めた。
「中学の部活だ。弱小チームなうえに中でも俺はかなり弱かった」
ふふ、とクスクス笑う息が脇にかかる。
「礼儀や掃除、防具の扱いはかなり仕込まれて相当身についたけどな。中学のときは体が小さかった。リーチが短ければ当然不利になる」
「そうなんだ。でもずっと続けてたんでしょ」
「ああ。中学でさんざん負けて悔しくてな。剣道部がある高校をわざわざ探した。特別強い高校じゃなかったけど個人戦ではそこそこの成績をあげるようになった」
「へぇ。がんばりました」
夏未は毛布から手を出して俺の髪を撫でる。
「中学の時は無駄な練習ばかりだったな。竹刀振りまくって走りまくればいつか勝てると思っていた。試合でも馬鹿みたいに突撃するだけで。失敗だらけだ」
 
一向に成長しない俺を父は長い目で見守ってくれた。せっかく単身赴任から戻ってくる週末、今日の試合はアレが失敗、こうすればよかったと愚痴ばかり吐いて、自分はダメだダメだと泣き言ばかり言っていた。それを全て聞いて受け止め、夕飯時には右手が疲れてろくに箸を持つことができない俺にスプーンを渡し「とにかく飯を食え」と言ってくれたものだった。
 
そして全く剣道を知らなかった父が本を借りて勉強を始め、単身赴任から戻るたびに一緒に練習してくれるようになった。足運び、握り、打ち、ばらばらではだめだ。よく見ろ。相手の隙を探せ。一瞬の隙だ。ほら今だ。見逃したぞ。 次だ!
 
父は「失敗したら次に取り返せばいい」と口癖のようによく言った。
 
綺麗な型に拘っていては一瞬の隙を見逃してばかりだ。だが誰だって失敗する。失敗だらけの人生だ。失敗した経験は消せない。だが消す必要もない。失敗した経験を生かして次に挑めばいい。お前ならできる。
 
取り返せばいいんだ、と。
 
夏未は腕の中で静かに寝息を立てていた。
俺は夏未の額に軽く唇をつけ、一瞬の安らぎを得るためにそっと目を閉じ浅い眠りについた。


「雑談」へつづく ▶


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豆島  圭
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