小説/桜色のマニキュアとハチワレの空
桜色のマニキュアだった。
ター子の汗ばんだ手のひらの上に置かれたそれは、今の季節にピッタリの、お化粧なんかしたことない私たちにピッタリの、小さな瓶にめいっぱい詰まった、薄いピンクのマニキュア。
「かわいい。どうしたの、これ」
笑顔で聞く私と対照的にター子は怒ったような真っ赤な顔で私に言う。
「どうしたのって! ボンちゃんが言ったんじゃん!」
「私が? なんて言った?」
そんな顔で怒るから男子にター子じゃなくてタコって呼ばれちゃうんだよって言おうかと思ったけど様子がおかしかったからやめておいた。
「ボンちゃんが……盗っちゃえばいいじゃんって」
「えっ」
ター子は桜色のマニキュアをギュッと握りしめ、桜並木の土手の上で私に背中を向けてうつむいてしまった。
「とっちゃえ……って。ソレ、もしかしてツルヤに売ってたやつ?」
ツルヤは私たちの通う中学校の近くにある文房具屋。
夜になってからシャーペンの芯や明日試験で使うコンパスが見つからないって緊急の時は駅まで買いに行かなくていいから便利だけど、値段が安いわけじゃないから普段は横目で通り過ぎるだけの店。
修了式の日に上履きを持って帰るの忘れたというター子に付き合って今日は学校に来て、でも日曜日だから門が閉まってて入れなくて。仕方ないから帰ろうかって言いながら、ちょっと『ちいかわ』の消しゴムが見たいというター子の誘いで仕方なく寄った店、ツルヤ文房具店。
「持ってきちゃったの?」
ター子は答えない。
「入口の近くの、新商品コーナーの?」
ター子は動かない。
「だから消しゴムも買わずに急いで出てきたの?」
「ボンちゃんが……! ボンちゃんが、そんなに欲しいならとっちゃえばいいって言ったんだよ。だから、だからアタシ……」
全く記憶になかった。
そもそも、ター子がマニキュアを見ていたことすら気に留めてなかった。お店に入る時にマニキュアなんて売ってるんだ可愛いなとは思ったけど、そんなの買ったらお小遣いなくなっちゃうし、春休みでもそんなの塗ったらママや先輩に何言われるかわかんないし。
私は中3になったら新しいのにしたいなって、ずっとシャーペンだけを眺めていた。
「ボンちゃんは万引きなんて普通かもしれないけど、アタシは……」
いや、待ってよ。普通じゃないし。私は万引きなんてしたことないし。
ター子は泣き出しそうな顔で後ろを向いて走り出し、「ちょっと待ってよ」と叫ぶ私を振り返りもせず川に向かって芝生の土手を下っていった。
慌てて追いかけても陸上部で鍛えてるター子には敵わない。私が土手を転がり落ちないようにゆっくり下りた時には、ター子は川に向かって大きく右手を振り上げ、腕を回して何かを川に投げた後だった。
何かって、たぶん、盗んだマニキュア。
「ター子…、ハァ、ハァ……な、投げた? 捨てた? ハァハァ」
ター子はパーカーのポケットに両手をつっこみ、頷くようにうつむいた。
これでもう、ごめんなさいって謝って返すこともできない。完全犯罪じゃん。何やってんのよ、もう。
日差しはあったかいけど、まだ冷たい風がター子の前髪を揺らした。
私は息を整え、少しだけ土手を登ってクローバーの茂みの上に腰をおろした。ター子もうつむいたまま、私に近寄ってきて隣に座る。
何でそんなことした。何でマニキュアなんか。
そんなこと聞いても意味がない。私が言ったからって同じこと言われるだけだし、いまさら一緒にお店に行って謝ろうとか言う気もない。
ツルヤは文房具以外の商品もたまに売っていて、だけど店のオバチャンが必ずお釣りを誤魔化すとか、何も買わないで店を出るとメッチャキレるとか、悪い噂しかない。
だから謝りに行くなんて怖くて絶対むりだわ。
でももしかして、ター子はこれまでにツルヤのおばちゃんに何か嫌なこと言われたことがあるのかな。復讐のつもりかな、なんて思ったりもした。
「そういやター子、もうすぐ誕生日だったね」
「4月3日」
「なに欲しい?」
「ハチワレの消しゴム」
「だよね」
私はその場で寝転んだ。
別にマニキュアが欲しいわけじゃなかったんだ。
目の前はハチワレみたいな色の空。あんまり爽やかじゃない色あいの空に、ぼんやりした雲が全く動かないまま二人を見下ろしている。
「明日、まなぶンち行くの?」
体育座りのター子が、やっと私と目を合わせて全然別の話をしてきた。
「あさって、ね」
「あさって。行くの?」
「なんで?」
「さーちんも行くってよ。さーちんと、ハットリ」
あぁ。そうなんだ。
私は悟った。
夏休みにまなぶンち行った時、あのときも二人がいてゲームしながら突然目の前でイチャイチャしはじめて。何してんの、やめてよって言ったけど、まなぶは止めないし。ハットリが自分のベルトを外し始めたときに私は慌てて部屋を飛び出ちゃったから、その後どうなったかは分からないけど。
どうやら、まなぶは私をその気にさせたくて二人をわざわざ呼んだらしいって後から理解した。
あれ以来、まなぶの家に行くのは嫌だったから何とかごまかして外でしか遊ばなかったけど。
「さーちんとハットリ。ヤッたんだって」
私は、ター子の桜色の頬を斜め下から黙って見ていた。
「卒業式のあと。先輩たちを最後に見送ったあと、自分ちに誘って最後までヤッたって。修了式の日にハットリが自慢してたよ」
そうなんだ。夏休みのアノ日はダメだったんだね。ま、そうだよね。私が雰囲気をブチ壊したもんね。
「さーちんは本当は先輩が好きだったのに、卒業式の日にコクって彼女がいるって知って。泣いてたらしいけどね」
そうなんだ。だからって、なんでハットリなんかと。そう思ったら、おんなじセリフがター子の口から溢れた。
「だからって、ハットリなんかとヤッちゃうの、どうかと思うよね」
私はビックリして、でも思わず同調した。
「あはは。おんなじこと考えてた。どうかと思うよね」
思いっきり笑いながら言うと、ター子は勢いよく振り返って私を見下ろし、そしてニカッと笑った。
「だよねぇ?」
「アハハ」
ター子はもう、タコなんかじゃなくて、いつもの可愛いター子だった。
「でも、まなぶならいいと思うよ」
突然のター子の言葉にどぎまぎする。
「え、やだよ」
「え、なんで」
ター子が目をむいて私を見た。
「好きなんじゃないの?」
「好きだからって、好きでも……。そんなん、まだヤだよ」
「そうなの?」
ター子は声を張り上げる。
「ボンちゃんはガンガンやっちゃうタイプだと思ってた」
なんちゅうことを言うんだろう。ター子とは小学校からずっと仲良しなのに私のことどんな風に見てたわけ? 万引き当たり前とか、ガンガンやっちゃうタイプとか。
そこでふと思い出した。
そんなに欲しいなら取っちゃえばいいって話、そういえば言ったかも。
「私さ、ター子がもし、そんなにハットリのこと――」
「あー、いたいた! ちょっと、あんたたち!」
突然、土手の上から声が降ってきた。
「やば。ツルヤのオバチャン」
私が言うと、ター子の体が固まる。動かない私たちに向かってツルヤのオバチャンはどんどん近づいてきて、また叫んだ。
「これ、落としたでしょ。財布!」
オバチャンは土手の上からター子のピンクのポーチをゆらゆらさせて叫んだ。
「あっ」
ター子が慌ててポケットをまさぐり「あたしのだ」と叫んで立ち上がる。
オバチャンは体重を後ろにかけるように体を斜めに傾けながら土手をゆっくり降りてきた。
「探したよ。卒業生だったらさ、もううちには来ないだろうと思ってさ、必死で追いかけて、ここかい。探しちまったよ」
すみません、と言いながらター子が口を尖らせて財布を受け取る。
「オバチャン、今、お店は?」
ツルヤは普段オバチャンひとりでやっている。その一人がここにいるということは今は誰もいないのかと気になって聞いてみた。
「うちの爺さんに店番してもらってるよ。ボケちゃってるからね。あてにならないけど、いないよりはマシだと思って」
「すぐ戻んないと、万引きし放題だよ」
ター子が自分のことを棚に上げて大胆なことを言うからハラハラした。
そうだね、ガハハとオバチャンは銀歯を見せて笑い、また土手を登りだした。
「オバチャン!」
ター子が土手を登っているオバチャンの背中に向かって叫ぶ。
「ごめんなさいっ!」
深々と頭をさげるター子にオバチャンは、いいよ、いいよ、と振り返って手を降る。ター子のゴメンナサイの意味はオバチャンの思ってるゴメンナサイの意味と違うと思うけど、それでもいいんですか、とは言わない。
ター子はちょっとホッとした顔を見せた。
「オバチャン!」
土手を登りきったおばちゃんに向かって私も叫ぶ。オバチャンは面倒くさそうな顔をして、腰をおさえながら振り返る。
「あとでシャーペン買いに行くからっ!」
おばちゃんは何も言わずに、でもニッコリ微笑んで手を振ってから、前に向き直って歩いて行った。
オバチャンが少し離れたらター子は眉を顰めて「ツルヤのシャーペンはすぐ壊れるってよ」と私に言うからおかしくって吹き出した。
それから少しあったかい風が吹いて、サクラみたいな白い花びらが私たちの周りとくるくると回って、そしてハチワレの空まで登っていった。
(了)
こちらの企画に参加しました。部長、いつもありがとうです~。
ちょっと私っぽくない話だったかな? 春らしい青春のひとコマを描きま……いや、万引きはあかんやろ。窃盗ですよ。ダメ、ゼッタイ。ですよ。
ちなみに、ちいかわ とか、全然話を知らないです。ただ人気キャラだから使いました。透き通るような青、ではないと思いますが、どうでしょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。