残夢【第三章】③逃走
一九九五年 冬
僕は背伸びして大輔のハンマーを探す。薫子の名前の前に置いてあるかな。でも玄関の外からではよく見えない。
さっきから家の中は全く静まり返っている。チャンスかもしれない。
僕は、扉の取っ手に手をかけた。そっと押してみる。
その時、音が聞こえた。
僕は扉から手を離し、玄関脇にある植え込みまで咄嗟に走った。隠れるように屈みこむ。山を登ってくるような車の音が聞こえたんだ。
まずい。誰か来る。薫子だったらサイアクだ。
車の近づく様子をうかがっていると足元の植え込みの中に赤い色が見えた。花は一つも咲いていない。ポツンと赤い色。違和感があり覗きこんだ。
大輔のハンマーだ。
黒く光る鉄の部分は普通のハンマーだけど、柄の部分全体に赤い滑り止めのテープが巻いてある。あのかっこいい赤色は大輔の道具によく使われる色。大輔のものに違いないと思った。
ふと上を見上げた。バルコニーから落ちてきたのかな。外に落ちているものなんだから盗むわけじゃない。そう自分に言い聞かせて植え込みに手を入れてそっとハンマーを持ち上げた。
山を登ってきた軽自動車は、敷地内の砂利をバチバチ音たてて入ってきた。とっさにハンマーをお腹に抱えて門の近くまで走り、木の後ろに隠れる。
グレーの軽自動車が停まり、運転手が手元を見ている隙に林の中に入る。
誰だろう。見られてないかな。心臓がバクバクし始めた。
年老いた運転手ひとりしか乗ってないみたいだった。降りてくる前に僕はその場所から離れようと山の木々の間を走った。
大輔とすれ違っても構わない。僕が目的を達成しているのだから。だけど、このハンマーが大輔のものとも限らない。人の物かもしれないものを勝手に持ち出すことにものすごく罪悪感があった。泥棒の気分だった。
なんで大輔が来てくれないんだ。なんでこんな気分にならなければいけないんだ。そう思いながら振り返らずに走り続けた。
太陽は沈む直前だったけど山の中はすっかり暗くて木の根っこに足を取られた。
「あっ」
ほんの一瞬がスローモーションのように流れる。何かにひっかかった足と反対の足を出したつもりだけど間に合わず、ハンマーを持った両手をお腹に抱えていたから手も出し損ねた。僕は肩から地面について大きく何度か回って転がり落ちた。
「イッたたた」
どのくらい転がり落ちたか分からない。でも、それほどの急勾配でもなく大したことはなかった。
体を起こすと手に持っていたはずのハンマーがない。慌てて見渡すと三メートルくらい先に落ちている。よかった。ここで失くしてしまったら元も子もない。
立ち上がって服についた土を払う。びっくりしただけで怪我もしていない。泥濘に落ちていたハンマーを拾って、今度は慌てずに山を下り始めた。
なんで僕がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。大輔が来ないせいだ。いや、薫子のせいだ。だんだん腹が立ってきた。
山を下って川に出ると急に明るく感じた。服が泥だらけだったしハンマーも泥まみれ。腹は立っていたけど申し訳ない気持ちもあった。川でハンマーを綺麗に洗って返そう。
川の水は凍えるように冷たい。鉄の部分を優しく撫でると粘土状のドロリとした泥がきれいに取れて汚れた水が流れていく。
鉄の部分と柄が少しずれたのかグラグラしている。僕が転んだせいかもしれない。いや、最初から安物だったのかもしれない。こんなもののために。
水に流れていく汚れを見つめる。
何か違和感があった。
泥汚れとは違う何かが流れて行った。ふと手のひらを広げてみると、赤い血のようなものがついている。ハッとして自分の体や足元を確認しても、どこも怪我はしていない。
なんだろうと思いながら赤い手とハンマーを洗うと持ち手の赤いビニールテープの色が抜けていくように汚れが取れていく。赤い汚れはあっという間に川下に溶けて流れていった。でも、ビニールテープの赤色はそのまま残っている。塗装が剥がれたり、色が抜けたわけでもない。
何が流れて行ったんだ。
橋の上を軽自動車が通り過ぎた。
あとは何の音もしない。川の流れる音だけが耳に残る。川の水が大きな岩にあたってクプンと音をたてる。
その泡と一緒に、僕も川底に引き摺りこまれていくような、そんな感覚に襲われた。
「ケーン!」
大輔の声が響いた。こっちに向かって走ってくる。
「大輔! 何してたんだよ。遅いよ!」
「ごめんごめん、どうしてもって母ちゃんにお遣いを頼まれて」
僕はむっとしながらハンマーを差し出す。
「やった! ありがとう! さすが学級委員長頼りになる。すぐ返してくれたん?」
「いや。庭に置きっぱなしだったから勝手に持ってきた。汚れてたから洗ってた」
「なんだよそれ、ひでぇな。でもありがとう。ほんっとにサンキュー」
大輔は、このお礼は何でもするからと満面の笑みで言った。
それだけでいいのかどうか、一抹の不安がよぎった。だけどその不安は透き通る川の水と共にサラサラと勢いよく下流に消えていった。
*
「そして俺は翌日、テレビニュースで事件を知った」
俺がハンマーを持って逃げるのを見たと供述した近堂に、あの日の自分の行動を簡単に説明した。話を聞いている間、近堂はピクリとも動かない。
小さな窓からオレンジ色の西日が差し込んで近堂の髪を金色に染める。
報道のさらに数日後、凶器のひとつが発見されていないことを知って愕然とした。バルコニーの下に落ちていた大輔のハンマーが凶器だったのではないか。川で洗ってしまったものが血液だったのではないか。俺は恐怖で体が震えた。
「俺は、自分のしたことを親に打ち明けた」
近堂に言うと、逆光の近堂はスッと息を吸って意外そうな表情を向けた。
親には叱られると思ったが、それよりも、あの家の敷地内から勝手に持ち出して洗ってしまったことは取り返しのつかない失敗だった気がして、その罪悪感のほうがずっと強かった。
母親は詳細を問い詰めなかったし責めたりしなかった。すぐに一緒に警察に行って話そうと言ってくれた。だが、なにより大輔のハンマーがなくては話にならない。俺はまず大輔に話をしに行った。
大輔は、気持ち悪いことを言うな、あのハンマーは血なんてついていなかったしグラグラで使い物にならないからもう捨てたと言い張った。大輔は嘘をついているのではと思った俺は何度も頭を下げて一緒に警察に行こうとお願いした。だが聞き入れてもらえなかった。
「俺はそのままひとりで交番に行った」
近堂の眉は神経質にピクンと動き、俺の顔を睨みつけた。
交番の巡査に大輔を説得してもらおうと思った。ところがいつもの巡査は巡回中で代わりに私服の女性警官がいた。あの事件の捜査に来ていると言うので丁度いいと思い全てを話した。警察官は顔色を変えながら真剣に聞いてくれ、どうしたらいいかと泣き出した俺の気持ちを落ち着け、そして優しく「私に話してくれて良かった」と微笑んだ。
そしてこう続けた。
「実はね、ハンマーみたいなもので頭を殴られたと報道されているけど、全部本当のことをテレビで言っちゃうと困ることもある。犯人しか知らないことは隠しておくの。百藏加奈を殺した凶器は、あなたが持ち帰ったハンマーではない。だって――」
警察官はそう断言して理由も続けた。それでも念の為と言って大輔の名前と住所を俺に訊ね、ハンマーは預かって確認すると言っていた。
目の前の近堂はピクリとも動かず俺の話を聞いている。
近堂は俺が苦しむのを見たいと言っていた。俺が犯罪に関わっていることを長年隠し続け、それが詳らかにされれば俺が苦しむと思ったのだろう。そのような展開になりそうにないことをもう理解しただろうか。
俺の話になかなか反応しない近堂の出方を待った。
あの時、巡回から戻った村の巡査は私服警官のことを「お嬢さん」と呼びながらも同時に「女性初の警視総監も夢じゃない」と言っていた。俺は巡査がゴマをすっているとは気づかず、そんな頼もしい女性がいるのだと素直に感動し、その時に警察官という職業にも興味を持ったのだった。
ただ翌日、大輔はハンマーを没収されたと怒って俺と口をきいてくれなくなり、三学期は静かに流れ、俺は家族とともにまた父の転勤で金門村を離れた。
近堂が黙っている間、自然と昔の事を思い出していたが、そろそろ終わりにしよう。
「だから、近堂」
近堂の髪が僅かに揺れた。
「残念だが、あの日の行動をすべて見られていたからと言って、俺が苦しむことはないんだ。俺は過ちを犯したが、すぐに自分のできる限りの行動をとり、すべて正直に話をしている。何も隠してなどいない」
窓の外の西日はすっかり民家の間に落ち、青紫の空に灰色の雲が広がる。
パチンという音をたてて藤岡が部屋の明かりをつけた。蛍光灯の青白い光が近堂の顔を照らすと、眉尻をあげ血走らせた瞳の近堂が、突然、両手を机に叩きつけて怒りを露わにした。
ティンパニーでも演奏するかのように。
「どうして! どうしてーッ!」
叫びながら息を荒げて髪を振り乱し、何度も何度も「どうしてどうして」と叫びながら両手で机を叩く。その様子を暫く見届ける。
何度か机を叩きつけると近堂は突然動きを止め、ピタと机に顔を伏せたまま「あなたじゃなかった」と声を震わせた。
「あな……ヘラを殺し……の、あなたじゃなかっ……」
「ヘラ?」
聞き返すが近堂は顔を伏せたまま反応しない。
近堂は、俺が証拠を持ち帰ったのではなく、女を殴り殺したと思っていたのか。それはさぞかし脅迫のネタになると思ったことだろう。俺はふっと息を吐いた。
子どものころ人を殺めておいてわざわざ警察官になるものなどいるだろうか。俺は、あの時の失敗をどうしても取り返したくて警察官になったのだ。
「私……バカみたい。今まで、今まで何を……」
机に伏せて泣いていたと思えた近堂が顔をあげた。
頬を濡らしたまま口を横に大きくひいて笑顔を作っている。目は決して笑っていないがキャハハと声を出して笑い出した。
俺も藤岡も、静かにその様子を見つめる。
「俺に復讐しようと思ったのか。俺を強請って、苦しめようと」
「復讐?」
笑っていた近堂は目を見開いて動きを止める。両手は机の上に広げて置かれたまま、きょとんとした。
「私が復讐? どうして」
「俺が殺したと思ったんだろう? セミナーで多くのことを教えてくれた大切な先生たちを殺した人間が憎いのだろう」
「憎い? 大切な、先生。大切……」
今度は、はっと思い出したように眉を釣り上げて、また怒りを露わにした。手で拳を握り、机をドンドンドンと両手でリズミカルに叩きだす。
「ヘラは、大嘘つきだったわ! おお、うそ、つき!」
そう言ってまたドンドンと両方の拳で叩く。
「未来は、女が、作るって! これからはっ、女が、男を、支配する、とか! 言って!」
顔を真っ赤にしながらさらに怒り続ける。
「オノダのように! 女が、コントロールするって、言ってた! の! に!」
手がすでに赤くなっているが、何度も拳を叩きつけ、唾を飛ばして叫ぶ。
「ケンさん」
藤岡が心配そうな声で俺の指示を促す。
「いつまで経ってもそんな時代はこない! こない! 来ないじゃないのっ! 全部パフォーマンスよ! 結局、結局! 自分だって! 別の男と嬉しそうにっ」
藤岡華乃が立ち上がり「ちくしょう、ちくしょう」と叫ぶ近堂の手を止めようと両手で拳を押さえる。それでも近堂は止まらない。
「嬉しそうに悶えて! 嘘つき! 死ね! 死ねっ! 死んで当然だ!」
近堂の掌と一緒に何度か机に手を叩きつけられた藤岡は「落ち着きなさい」と言いながら痛みを堪えて近堂の手を包み込む。
みんな大嘘つき。死ね、死ね、と繰り返す声は徐々に小さくなり近堂の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。机を叩く拳は動きを止めた。空を見つめたまま、近堂は何かを呟く。
「…あな……が……だっ……ら、どれほど嬉しかっ……」
背筋を伸ばして正面を向いたまま、右手を藤岡に押さえられた近堂は「あああああ」と大口を開けて泣き出す。
まるで山道で迷子になってしまった子どものように。
「あたしは、あたしは、あああるてみすの……あああ」
俺は必死で近堂の言葉に耳を傾ける。何と言った? アルテミス?
「はち、八代目の言うこっ、言うことなんて、きかなければ、よかああ……。ごめんなさ。ごめんなあああ」
「八代目? 何と言われたんだ」
俺の問いかけに、近堂は口を開けたまま泣きながら頷き、必死に何かを伝えようとする。
「あなたにああうには、あって、会って、く苦しむ顔を、ひっ、見るには、ひっ。ひっ。こ、こうすれば、いいと、は、はちだい……」
「八代目とは何だ。誰のことだ、言え」
「あたしは、あなたに、ああなたが」
藤岡が近堂の腕と背中を慰めるように擦る。
近堂は、あーん、あーんと正面を向いたまま、目を瞑って肩で息をしながら泣きじゃくる。
「あああ、あなたが、好きでした。あたしは、あなたが、ただ、あなたが」
そして握っていた拳をゆっくり広げて口元に寄せ、苦しそうに囁く。
「だから、あなたが苦しむ顔が、見たかっ はうっ」
口元を押さえて徐々に息が荒くなる。近堂は両手を自分の首元に寄せて喉をさする。はぁはぁと息が荒くなり、パイプ椅子の上で体をゆっくりと横に揺らす。さらに息遣いが荒くなる。
「……お、ねがい……」
俺は近堂の囁きに耳を澄ます。
おばあちゃん お願い クリスマスプレゼントをちょうだい 見たいの 苦しそうに歪む 顔が 大好きだから おばあちゃんが
「どうした? なんと言ってるんだ?」
近堂は自分の首元をさすっていた指に力を込め「うぐっ」と声を漏らすと目をカッと見開いた。前を見つめたまま顔色がみるみる赤くなり、こめかみに血管が浮き出る。
「近堂! やめろ!」
俺と藤岡がいそいで近堂の手を首から離す。パイプ椅子が倒れ床に崩れ落ちると今度はそのまま激しく床に後頭部を打ち付けようとする。
「やめなさい!」
俺たちの声を聞きつけた課員がバタバタと駆け付け、山下が最初に部屋に飛び込み近堂を押さえ込む。藤岡は暴れる足を押さえようとして顔面を強く蹴られ「うっ」と唸り声をあげて尻もちをついた。近堂は再度自分の首を必死で締め付けながらググゥと悶える。
「ダメだ! やめろ!」
俺は近堂の手を剥がしながら彼女の後頭部を腕で守るように押さえつける。左手は山下が後ろに回し、ふたりがかりでなんとか手錠をかける。
それでも呼吸をすまいと必死に息をとめて紫色の顔を震わせる近堂に「息をしろ!」と両頬を強くつかんで左右に振る。開いた口に無理やり四本指を突っ込むと近堂はオエッと声を出して息を吐いた。そして反動で大きく息を吸う。むせるようにまた息を吐く。唾液と汗と涙が飛び散る。
近堂は過呼吸のように「ヒーッ」と激しく息を吸っては吐き、またヒーッと吸って吐き、興奮状態は収まらない。
「落ち着け、大丈夫だ。大丈夫だ」
声をかけ続けると急に近堂の身体の力が抜けた。
過呼吸で意識が朦朧としてきたのか、もう何もできないと観念したのか。俺に頭部を抱きかかえられた近堂は静かに、ゆっくりと呼吸を整え始めた。
そして俺の胸の中で大きく息を吸うと、続けて肩を震わせ泣き出した。
迷子の子供ではなく、ひとりの女性として大粒の涙を目尻から流す。堪えていた嗚咽が堰を切ったように流れ出し、徐々に大きくなっていった。
このまま取り調べを続けるのは無理だと判断し、近堂は救護室に運ばれた。
④「残夢」(最終回)へつづく ▶