残夢【第一章】③お七
俺は、警務課のドア脇に貼られた交通安全ポスターの『ふりむくな』というロゴに目をとられて足をとめた。県内の中学生部門最優秀作品らしい。
自分の運転する自動車の後部座席でグズる我が子が気になっても走行中は決して振り向いてはいけない。事故を起こせば幸せだった日々は二度と戻ってこないというメッセージが込められた水彩画は酷くグロテスクな色彩で描かれていて一目で心を掴まれる。
落とし物を受け取りに来る一般市民も必ず目にするはずだが過疎化が進んでいる鳩巻署管内では寧ろ『振りむいて指さし確認しろ』と言いたくなるような事故が相次いでいるのが残念でならない。
幼稚園バスや保育園に送りに行く際にすやすや眠っていた子を夕方まで車内に放置してしまう事故。穏やかに眠ったまま亡くなったとは思えない。どれほど寂しかったか。どんなに苦しかったか。
ポスターに描かれた車体に忍び寄る悪魔らしき影が胃に重くのしかかるのと対照的に、軽やかなステップが背後に近づき俺の肩を叩いた。
「このポスター、いいでしょ」
振り向くと同期で警務課の曽根徳宏だ。
「ほら、運転手がパパでしょ。幼児を乗せて保育園や買い物に出かけるのがママの役目って時代はとっくに終わったって中学生も知ってる。パパだってね、運ぶだけじゃないのよ。かわいい我が子が泣きだしたらソワソワする。オムツが濡れて泣いてても休日はスマホゲームしか目に入らないようなパパなんて今は少数よ。そんなメッセージも伝わるでしょ。あ、父性が足りなくて離婚されちゃった堂森ちゃんには伝わらないか」
「は?」いきなり自分がディスられるとは思ってもみなかった。
「お前なんて一度も結婚経験ないクセに」と精一杯の嫌味を返す。
だがポスターにそんなメッセージがあると露ほどにも思わなかったのは事実だ。いや実際に無いだろう。ジェンダー問題に敏感な曽根だけの勝手な解釈に違いない。
「あら。じゃあ独身同士ちょうどいいわ。堂森ちゃん結婚しよ」
顔を近づける曽根を手で払いのける。
「残念だが日本の法律上、俺はお前と婚姻関係を結べない。だいいち俺にはそういった嗜好がない」
「やだ。差別発言」
曽根は明らさまに拗ねた顔つきで体をくねらせた。
「差別ではない。俺は好まないと言っているだけだ。曽根は好きにしたらいい」
「ふふふ。堂森ちゃんのそういう真面目なところ、ス・キ」
人差し指で俺の鼻を突こうとするのを全力で止める。
曽根はゲイという訳ではなく実際に警察学校時代は長く付き合っていた彼女もいた。だが年々こういった態度を人前でも隠さなくなってきている。
仕事は真面目で丁寧だが古い体質のここの上司には当然受けが悪い。どれだけパワハラセクハラを受けてきても軽く受け流して飄々と業務をこなしていくところを俺は尊敬している。
だが人前でベタベタされるのはたとえ恋人でもお断りだ。
しつこく絡んでくる曽根を押しのけながらガラス張りの扉の向こうで電話対応をしている稲元夏未にふと目をやった。顎と肩で受話器を挟みながらパソコンを操作し腕時計も気にしている。まもなく定時。
昨日の女の逮捕から丸一日経っているが相変わらず女は事件について何も話していない。
「ところで警務課に何の用?」
「あぁ、二階のコピー機が壊れて課員が困ってる」
「また? あのコ、私の言うことはよく聞いてくれるのにね。でも内線くれればよかったのに」
「帰るついでだ」
「もう帰るの?」
曽根は目を見開いて聞き返したが、すぐに何か思い至ったようで目を逸らした。
そう言えば朝早く曽根は刑事課に居た。むしゃくしゃしていたので目に入らなかったが。
「もしかして聞いてたか」
俺が弱気な声で訊ねると曽根は苦笑いを向けた。
昨晩「逢いたくて。あなたに」など意味ありげなセリフを女に吐かれ、吸い込まれるように僅か一瞬だけ言葉を失ったのがいけなかった。
慌てて口をついて出た「俺の名前も知らなかったじゃないか」に対し女は「名前を聞く暇もなかったわ」と返したものだからミラー越しのざわつきを背中で感じた。
「本当に逢いたかったの。ずっと。ずうっとよ」
少し前のめりになって俺の顔や手元を這うように観察する女の視線に耐えられず、俺が無意識にテーブルの下に手を隠すと女がふと笑いやがった。
観察するのはこっちの仕事だ。
腹が立って「いつどこで俺と会った」と詰問しようと口を開いた瞬間、女はさらに頬を1ミリあげた。
女は俺に聞かれるのを待っている。
俺とどこで会ったのか喋りたがっている。
根拠のない予感が俺の口を塞いだ。
女は「覚えてないわよね」と悲しそうな表情を浮かべるとまた口を噤み始めた。その後、被害者との関係や動機について何を聞いても女が口を開くことはなかった。
「揶揄われているだけだろう? いったい何を恐れた。やましいことがある証拠だ。念のため山下に調べさせるからホシとの関係がはっきりするまでお前は他の捜査にあたれ」
係長に冷静に諭されているときにコピー機と格闘していた曽根に聞かれたのだろう。
取り調べも碌にできないのかと能力の低さで怒鳴られる方がマシだ。被疑者との関係を疑われて外された。
いつ、どこで会った?
いや俺に逢いたくて事件を起こすなど有り得ない。思い上がるな。黙々と自分の仕事をしろ。
俺の中の俺が耳元で囁いた。
「まるでアレだよねって誰か言ってたよ」
「アレって何だ」
「えっと何だっけ。江戸や猫八? 火消しの男に逢いたくて江戸の町に火を点けちゃう女」
「それを言うなら八百屋お七だろ」
「そっか、間違えた。でもちょっと憧れちゃう。愛よねぇ」
放火犯に憧れる奴が勤めていい職場ではないと説教垂れたくなるがこの話は終わりにしたいので諦めた。
本当に警察の誰かに逢いたくて起こした事件だとしたら笑い事では済まない。市民の身を守るための警察が市民の安全を脅かす存在となる。汚点だ。今後の仕事に大いに影響がでる。どんな発表をすればいい。どんな報道をされる。それこそお七か猫八だと面白おかしく騒ぎ出す奴がいるはずだ。いくら俺の潔白が証明できても噂が立てば暫くは外を歩けない。そんな時代だ。
ただ、本当にあの女との接点が分からない。
近隣住人の話によると、近堂の母親は小学生だった娘のひろ子を連れて離婚。親戚の管理する平屋を借りて住んでいた。
近堂は前崎女子高等学校卒業後、現在は倒産している住宅設備会社の事務員として十年近く働き、その後自宅で書道教室を営んでいた。二年ほど前に母親が亡くなってからは教室を閉めたのか子供の出入りはないらしい。婚姻歴はない。
まだ不明な点は多いが、共通点といったら現住所が同県というくらいで年齢も出身地も違うのだ。
「まさか、あれかな。うちらが作成した YouTube」
曽根は眉間に皺をよせて天井を見上げる。
就活用PR活動として数年前から YouTube 動画を作成して流しているが再生回数は二桁程度だと嘆いていた、あれか。
「あんときの堂森ちゃんの笑顔。めっちゃイケメンだったもんね。あれを見て『スキーッ』ってなっちゃったのかな」
曽根はうっとりと天井を見上げた。
「ふざけるな」
二年前、鳩巻署に赴任したばかりの俺は事情もよくわからぬまま久々に会った同期に頼まれて剣道場で竹刀を振る姿の撮影は許可した。その存在を忘れたまま日々を過ごし今夏に初めて見てみると、練習後に着替えている後ろ姿まで映っていたので猛攻撃した。すでに新バージョンを撮影しているので替えると言われて納得はしたが。
今は若手のインタビューがメインの動画だが再生回数は大差ないらしい。
「お前が撮影した動画のせいで事件が起きたというのか」
「やっぱり、そうかな」
「どうやって責任をとるつもりだ。お前の浅はかな行動が女と被害者の一生を狂わせた」
「えー。だってそんなの仕方ないじゃん。就活PR動画だよ? それを勝手に殺人の動機にされても責任ないでしょ。ほら、あれ。ヒミツのコイってやつ」
「秘密の恋? まさか未必の故意のことか。それなら動画を見た人間が事件を起こす可能性があると認識していながら動画を作成したってことだ。法的責任を問われる。ちゃんと『相棒』みてるか」
「『科捜研の女』の方が好き」
「まあ、どっちでもいい。曽根、それがお前の見立てか」
「うん、そう。動画を見て堂森ちゃんに会いたくなったって動機」
「俺は違う。あの女は単なる嘘つきだ。きっと子供の頃からそういった嘘ばっかりの人生を送っている。今必死に辻褄の合う嘘を練っているところだ。自分は加害者ではなく被害者だと、自分が如何に不幸だったか主張し出すに違いない」
「えー。そうかなぁ」
「俺を見て思い付きで嘘をついた。何の接点もないことが分かれば俺もすぐに捜査に加わる」
それこそ何の根拠もないが事実にしたくて言葉にする。
「あ。動画じゃなくて、堂森ちゃんの交番勤務時代に道を教えてもらったことがあるかもね。迷子の迷子の仔猫ちゃんに優しく道案内をしてあげたとさ」
「まだ言うか。もちろん動画よりは可能性あるが、それだったら何度も交番に来ただろう。俺の記憶にも残るはずだ」
「そっか。じゃ夢でも見たんだね、堂森ちゃんに助けてもらう夢」
俺に助けてもらう夢。
そうかもしれない。曽根にそう言われ妙に納得した。
あの女は夢でも見ている。そんな虚ろな目をしていた。薬物反応はなかったらしいが。
いつまでも入り口で話を続ける俺たちが気になったのかチラチラ視線をよこしてくる夏未と目が合った。
「じゃコピー機の修理、いい加減に業者に頼んでくれ。俺は帰る。お疲れ」
夏未にも聞こえる声で曽根に告げた。
曽根の「おつかれぇ」の声を背に自動販売機コーナーに向かう。
いつもの癖で『無糖』のボタンを押してから、冷たい炭酸をがぶ飲みしたい気分だったことに気付いて無意識に舌打ちをする。溜息をついてソファに腰を下ろし缶コーヒーのアルミ蓋を捻ると安っぽい香りが鼻についた。
目の前の小さな壁掛けモニターでは夕方のニュースが流れている。
クリスマスの風物詩となってしまった群馬県旧金門村の未解決事件。凶悪事件の時効が撤廃されてから毎年のようにこの時期だけ流れる事件の詳細。
事実婚夫婦と妻の連れ子の三人が、別荘で何者かによって殺害されたが三十年近く経った今も犯人が特定されていない。
――ささいなことで構いません。ぜひ情報提供をお願いします。
県警刑事部長の低い声と淀んだ空気が警察署の玄関を取り囲んだ。
「おつかれさまです」
財布だけ手に持った夏未が目も会わさず自動販売機の前に立って指を動かす。
「今日はあったかいミルクティ飲も。よし。おうちに帰ったらあったかーいシチューでも作ろっかな」
独り言のように呟いてボタンを押す。ゴトンという音がしてもミルクティを取り出す気配がない。
夏未の顔を見上げると目が合った。何か言いたげだ。
あの女の事を聞きたいのか。だが俺から言えることは何もない。どうしろと言うんだ。
「食べる?」
夏未は俺を見下ろしたまま片眉をあげて言った。
「シチュー、食べに来ない?」
その話か。
「ああ」と溜息のような返事をして飲める程度に冷めてきたコーヒー缶に唇をつけると夏未は屈んでミルクティを取り出し、そのままの姿勢で呟く。
「よかった。断られたらどうしようかと思ったよ」
「なんで」
「だって。いつもは事件が起こると暫くくちも聞いてくれないじゃん」
「そうか?」
「そうだよ」
夏未は両方の掌を温めるようにミルクティを持つ。
「じゃあ、私も伝票ひとつ整理したらすぐ帰る。あとでね」
そう言って立ち上がり小走りで警務課へと戻っていった。
今年の夏からほんのはずみで付き合い始めた、ひと回りも年下の彼女の背中を目で追う。
離婚してから二年。後ろめたいことをしている訳ではないが署内の女に手を出すほど困っているとも思われたくないので周囲には黙っている。夏未も目立たぬように自然に声をかけてくるだけでつまらない嫉妬や束縛もしない。
なにより結婚と言うものに夢を抱いていないのが楽だ。
養育費を送りながら別の家庭を新たに築きたいという気も起きないし、努力を怠るとあっという間に崩れ落ちるような関係をわざわざ構築しなければいけないなんて。
俺には無理だとすでに分かり過ぎるほど分かっている。
夢。
俺はまた曽根の言葉を反芻した。
夢の中で貴方に助けてもらったの。貴方に逢いたくてずっと夢の中を彷徨っていたのよ。そして今日やっと貴方に手錠をかけてもらえた。嬉しい。ありがとう。
目をつぶれば女の固まった顔が勝手にそう話し出す。
ふざけるな。
二度と夢の中から出てくるな。