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残夢【第三章】④残夢(最終回)

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取調室から戻った強行犯係の面々は、ぐったりとうな垂れていた。
「あの様子だと近堂は本格的な精神鑑定を受けさせる必要があるかもしれない」
俺がそう言うと真っ先に反応したのは小池さんだった。

「それでも責任能力はアリと出るだろうけど、刑期に影響があるかもな。そして、あっという間に野に放たれて、そしたら」
そう言ってみんなを見回した。

「またやるよ? 刃物を振り回して誰かをギタギタに刺す。俺かもしれないし、山ちゃん、お前かもしれない」

そう言って山下に同意を求める。山下は大きくため息をついた。
「そうですよね。今回は殺人じゃないですけど、いずれ死人がでるかもしれません。簡単に不起訴とか釈放とか。絶対ダメっすよ」

 暴れた近堂に蹴られ、目の周りが徐々に腫れだした藤岡華乃が一番痛々しそうだった。だが、自席で手の甲の引っ掻き傷に絆創膏を貼りながら藤岡がボソリと呟いた。

「男の性犯罪者は平気で野に放つのに」

みんなが一斉に藤岡を見た。
「なんだって?」
「藤岡、いま何て言った?」
 藤岡は明らかに疲れ切っているが、絆創膏を貼り終えると椅子をくるりと回して俺達を見あげた。

「性犯罪なんて魂の殺人って言われるのに簡単に野に放つじゃないですか」

藤岡の目の前に立っていた山下は言葉を失った。
「気持ちは分かるが」
かわりに嶌村が返答する。
「法律に文句言っても仕方ない。俺たちは警察官の立場で、できる限りのことをや――」

「ビクビクすればいいんですよ」

藤岡はきっぱりと言った。
「静岡、青森、大阪、広島。それから福岡。あと三重」
「え? なに、なに?」

小池さんは戸惑いながらも笑顔で藤岡に聞き返す。藤岡は、全員を見回しながらゆっくり、はっきりと言う。

「同様の事件の容疑者が一斉に野に放たれて、次に刺されるのはオレかもしれないって。怖くて昼間の住宅街を歩くこともできないって、コンビニも怖くて買い物できないって。ビクビクすればいいんです」

数日前にパソコンで見ていたニュース動画。あれら類似事件のことを言っているのか? 福岡、三重の事件なんてあったか? 藤岡は、あれらの事件と近堂の事件に関連があると考えているのか?

「男の人たちが自衛すればいいんです」

藤岡は急に声を荒げた。
「そんな恰好で出歩くからだ! そんな道を歩くからだ! そうやって責められればいい。だって被害女性はいつもそうやって心無い言葉にまた殺されるんです。何度も、何度も! そうでしょ?」
「藤岡、どうしたんだ」
俺がたまらず声をかける。だが藤岡は無視して続ける。

「刺された男の人たちだって自衛が足りなかったんですよ! トレンチコートの女に無防備すぎた。もしくは運が悪かった。忘れなさい。いつまでもぐずぐず文句言ってないで! 笑っていれば明るい未来が待ってるわ! 殺されなかっただけマシだと――」

「藤岡!」

俺が大声を出すとやっと藤岡は我に返ったようにハッとして話をとめた。
そして課員たちをぐるりと見渡し、ゆっくり息を吐きだした。

「やだな。冗談ですよ」

そして藤岡は腫れた目でにっこり笑った。

その日の雑務を終えてパソコンをシャットダウンする。
ひとりだけ帰るのが遅くなった。刑事課の蛍光灯は全て消えていて暗く、俺のデスク周りだけがスタンドで照らされている。
ウィーンという暫くのあと、プツンと音を立てて暗くなった画面に自分の顔の輪郭がぼんやりとうつる。

俺が持ち帰ったハンマーは、本当はあの事件の凶器だったに違いない。俺はそう思っている。

凶器でないと断言されすっかり安堵していたが、警察学校に通ううちに急に思い出して気になった。凶器でなかったのなら、あの流れた血のようなものは何だったのか。

洗ってしまったハンマーでも調べれば血液反応が出たはずだ。その結果をこの目で確かめたい。当時の警察が検査していなかったとしても適切に保管していたら十年以上経っていても何かしらの反応が得られるだろう。むしろ鑑定の精度が上がっているかもしれない。

俺は無事警察官になった年、そのことを当時の上司に話している。上司は金門村の管轄に問い合わせてくれた。管轄にはちょうど警察学校時代の同期も配属されていた。

だが、ハンマーなど県警に残されていないという返事だった。

大輔のハンマーはすぐに返されたということだろうか。大輔はそんな言い方をしていなかった。警察官が怖かった、大事な道具を没収されたと、俺のことをかなり恨んでいた。大輔に会って確かめたかったが、それも叶わなかった。村島市内で教師を続けていた内田先生の話によると、大輔は19歳の時に交通事故で命を落とし、家族も村を離れたようだった。

その後も納得がいかず、俺は当時の記録がどうなっているか見たいと管轄の同期に食い下がった。すると意外な答えが返ってきた。

そもそも子供のころの俺や大輔の証言について全く記録が残っていない。今の担当刑事は誰もそのことを知らないという。
現場からハンマーを持ち去った子供がいたこと自体、県警は全く把握していなかった。俺や大輔以外の子供の聞き取り調査書も多数紛失しているらしい。
そんな杜撰なことが許されるだろうか。

凶器はハンマー状のもので、バルコニーから滑り落ちた可能性があるという記録はあるという。そのバルコニーの下から持ち去ったのは俺以外の何者でもない。俺は、あらためて訴えた。女性警察官に確認するべきだと。

俺はその時の警察官が「お嬢さん」と呼ばれていたことを上司に伝えると、当時の県警本部長の長女ではないかと口籠りながらも教えてくれた。警察に勤務していたのは僅かな期間だけで、その後理由があって海外生活を送っていると。そして上司は平然と言った。

「すでに批判を浴びている事件なのに、これ以上ほじくり返して何になる。当時の県警本部長は今もOBとして警察組織に関わっている。だから堂森、お前の過去も、その記憶も。全て忘れたほうがいい。じきに時効になる。それまで蒸し返すな」

組織にいれば黙っていた方が得策だと思われることがあるのは分かる。
当時の本部長の娘がどのような失態をおかしたのかは分からない。
だが、県を跨いで逃走した犯人の足取りを追いきれなかったのは群馬県警だけの責任ではない、という言い訳の方が、まだメンツが立つとでもいうのだろうか。
だから「犯人は未だ逃走中であり未解決」と言い続け、時効を迎えるのを待つつもりだと。

俺は自分の記憶に封をすることは、できない。急がないと本当に時効になってしまう。すべてがうやむやなまま終わってしまう。俺は悪夢から抜け出せなくなる。
その頃の俺は焦っていた。本部長の娘の責任を問うつもりは全くない。ただ、あのハンマーを探し出して鑑定をして欲しい。それだけだった。

そして二〇一〇年。
凶悪事件の時効が撤廃され、ぎりぎりで金門村の事件もその対象となった。時効となって闇に葬られることはなく、ひとまず胸を撫でおろした。

当時の上司がどう思ったかは知らない。あれから会っていない。異動になるたびに上には伝えているが、話はひとつも進展を見せない。
あれから俺はずっと、警察の隠蔽体質と戦っている……つもりだった。

だが、本当にそうだろうか。

今日になって、ふと新たな疑問が湧いた。
「大輔」と「薫子」の名前はずっと俺の記憶に残っていた。それ以外クラスメイトの記憶はあまりなく、五年生で転校したため卒業アルバムも持っていない。だが近堂と対峙し、小学校の同級生の一人が「百恵」という名前だったことを今になって思い出した。

目の前の真っ暗なパソコンモニターに、藤岡に見せられたニュースサイトの文字が浮かんで踊る。

サイトのどこかで「百恵」という文字を見なかったか。そんな名前の容疑者がいたのではないか。

「アルテミス」とは、おそらく称号。
あの家の掲示物には「三代目」を目指せと書かれていた。俺を苦しめる方法を教えたという「八代目」とは、八代目のアルテミスなのか。アルテミスの名は今も受け継がれているのか。

近堂のつぶやいた、ヘラ様とは百藏おろい葉子のことか。そんな呼び名があるという報道は一切なく、初耳だった。近堂だけの呼び方だろうか。ごく身近な人だけの。いや――。

ヘラ。
俺はその名を、どこかで耳にした。

机上のモニターを見るともなく見つめる。ぼんやりうつる俺の顔の後ろに髪の長い女が映った。はっと息が止まる。
「誰だ」
振り返ると、扉の向こうに立っていたのはトレンチコートを着た稲元夏未だった。いつもひとつに縛っている髪をほどき、片手で掻きあげている。

ほっと溜息をついて、机の上の荷物を適当に片付けながら背後の夏未に声をかけた。
「まだいたのか。このあと食事でもど――」

振り返るが、誰もいない。
換気扇の音だけが響く、静かな刑事部のデスクが広がるだけだ。見間違いか。疲れているのか。すぐに帰ろうと机上の煙草をポケットに仕舞う。
モニター画面上の、恐怖に怯えた俺が俺を見つめている。

三十年前の、ぼんやりしていた輪郭が徐々に明度を増してくる。
俺の話を交番で聞いた私服女性警察官は、あのとき何と言っていた?

考えろ。思い出せ。

「凶器はハンマーではない」
……違う。それがひっかかっているのではない。

「犯人は、男」
……あの時、そう断定された。

 そうだ。

トレンチコートを着ていた女性警察官は髪を掻きあげ、こう言ったのではないか。

――凶器が現場にあったのなら家族で殺し合ったと確定する。そんなわけがない。人を殴り殺すなんて。ヘラサマハ――

「ばかな」

思わず声が漏れる。
記憶が川を逆流するように一気に迫り来る。三十年前の景色が急に鮮明に流れ出す。ハンマーを持って山を駆け下りた、自宅のテレビで事件を知った、大輔と言い合いをした、一人で交番に行った、泣きながら全てを話した。

そしてあの時、何と言われたのか聞き取れなかった。

ヘラサマハ……

「ヘラ様は」だ。確かにそう言った。

 ――ヘラ様は最高位の女神。そんなことなさらない。人を殴り殺すのは野蛮な男の仕業。犯人は、男。逃げている、大柄の男。

そして巡査が戻ってきた。その言葉の意味を聞き損ねた。俺は、俺は……。

目の前が霞む。息が苦しい。
今まで見えていた景色がモノクロームに変わる。

あの女性警察官は今どこにいる。逃げた大柄の男などはなから存在しないのか。誰が嘘の証言した。いや複数だ。各地で何が起きている。何がこれから起きるんだ。
アルテミスは、誰だ。

いくら目を凝らしても暗闇が晴れない。
俺は何てことをしたのだ。真綿で首を絞められているようにジリジリと喉が熱くなる。呼吸ができずに首元を押さえる。
暗い画面にはりついた苦痛に歪む自分の顔から、俺は目を逸らせないでいる。近堂の見たかった景色は、これか。

いつになれば、この夢から抜け出せるのか。
俺は。




残夢 【完】


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豆島  圭
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