映画プロデュース 佐々木史朗のワンダーランド
佐々木史朗さんが亡くなった、と書いても「それ誰?」だろう。
今どき、見る映画をプロデューサーで選ぶ人は、ほぼ居ない。
元アート・シアター・ギルド(ATG)の代表、史朗さん。
彼のフィルモグラフィーを見れば、若い映画監督を育てたプロデューサーだった事が分かると思う。
『ナビィの恋』『逆噴射家族』『キツツキと雨』など。
私はフリーランスのCM監督になったばかりの頃、赤坂の映像会社で多く仕事をしていた。
CMや、テレビ番組の制作会社、そして映画のプロダクション。
映像会社が集まった狭いビルだった。
今思うと、そこはワンダーランド。
私が通うのは二階のCM部門の会社。
三階がテレビ番組製作で、四階が佐々木史朗さんの映画会社シネマハウト。
同系列会社だから、各フロアに行き来できる。
忙しいのでエレベーターなど使わない。
階段で井筒和幸監督(ガキ帝国)とすれ違う。
井筒さんは私をCM監督と知っていて、あの関西弁で「どぅや? 絶対CMの方が儲かるよなぁ」と声が掛かる。
私が、どう答えたかは忘れたが。
会議室からは「じゃあね。あとは現場で決めましょう」と根岸吉太郎監督(遠雷)の声。
各階の若手が談笑している談話室に立姿の相米慎二監督(魚影の群れ)が居る。
もちろん相米さんも若い。
私は「相米さんも、どうぞ座って下さい」と声を掛ける。
「あのね。痔の手術して座れないのよ」に、みんなが笑う。
ある日、友人のCMプランナーの結婚披露宴に招待された。
同じテーブルに、佐々木史朗さんと鈴木清順監督が居られる。
私は清順さんに『ツィゴィネルワイゼン』で、ずっと疑問だった事を訊ねる。
「大谷直子がコンニャクを千切るシーン。あの時、大谷さんはもう幽霊でした?」の奇妙な質問。
史朗さんは「津田さんらしい質問だ」と笑っている。
清順さんの答えは、著作『ヒッチコックを追いかけて』で。
更に笑い話。
三階事務所の私。
作った絵コンテ数枚、打合せ用にコピーして来るのを忘れていた。
社員でも無いし、勝手にコピーマシーンは使えない。
コピー機のそばに居た、同世代くらいの長髪のジーンズ青年に声を掛ける。
「すみません。このコンテを3枚ずつコピー、お願い出来ますか?」
青年は笑顔で「いいですよ」とコピーしてくれる。
その光景を見ていた佐々木史朗さん。
「津田さん。いまコピー頼んだの大森一樹監督(ヒポクラテスたち)だよ」と笑っている。
そして映画談義も忘れられない。
史朗さんプロデュースの『家族ゲーム』を絶賛すると、裏話を教えてくれる。
森田芳光監督が最初に持って来たシナリオは、主演の家庭教師役が小林薫だった事。
「家庭教師役は、小林薫より松田優作だろ」と史朗さんが提言すると森田監督は、首を振って固辞する。
「だって、殴られそうで怖い」だったそうだ。
「案の定、現場は殆ど優作が仕切っていたよ」と史朗さんは笑っておられた。
独立系やATG(アートシアターギルド)映画は上映館が少ない。
だから大ヒットする映画は多くない。
最後に、お会いしたのは広末涼子の初主演映画『20世紀ノスタルジア』の頃だった気がする。
すれ違う階段で「ヒットしてますね」と言うと「恐るべしヒロスエ。写真集やグッズが凄く売れてる。こんな事、初めてだよ」と満面の笑顔。
絶頂期のアイドル映画だったからだ。
全ては、走馬灯の如く。
米国のme Too運動から、日本でも映画関係者の悪行が取り上げられる。
次々と、訳の分からない映画監督たちがネットニュースを騒がせる。
不届者たちのさもしい悪巧みに、映画が使われる。
彼は死の床で何を考えたろう。
佐々木史朗作品を、一本だけでも見て欲しい。
それは映画のワンダーランド。
佐々木さんの顔が見える映画。
日本の映画に欠かせない人だったと思う。
私は、佐々木史朗さんの笑顔しか思い出せない。