夏への扉を開けた日。 ”大林監督、高畑監督からのギフト“
何年前になるのだろう。
夏の、ある日。
とある映像祭の事務局が、借りている小学校。
廃校になっている学校。
蒲田駅前で、バスを探す。
バスには久しぶりに乗る。
見つけた。
廃校ではあるが青草のグランドでサッカーに興じる子どもたち。
東京でも少子高齢化が進む。
その小学校は、使わなくなった教室を幾つかのNPO法人に貸し出していた。
棚の籠に、それぞれの活動を知らせる為のチラシやカタログが入っている。
夏の陽射しが入る、子どもが使っていただろう階段を上る。
外で鳴く、蝉の声。
長い廊下の奥まった教室から微かに話し声。
扉を開く。
二人の男性が私を見る。
教室に居られたのは、大林宣彦監督、そして高畑勲監督だった。
その、ひと月前。
溝の口の、南武線の線路沿いの、決してキレイと呼べない焼鳥酒場。
友人の誘いで、暖簾をくぐる。
その店で私は小林はくどうさん、という美術家と初めて出会う。
長髪で、当時70歳ぐらいだろうか。
はくどうさんは多摩美術大学を出て、美術家に成られた。
岡本太郎の太陽の塔、あの大阪万博で作品(前衛的なオブジェ、はくどうマシーン)を展示するなどされた芸術家らしい。
近年はビデオアート、前衛的な映像作りで活躍されている映像作家でもある。
飲むと必ず映画話が始まる私を、武蔵野美大時代の友人が面白がって、やはり映画好きの小林はくどう氏と会わせてくれる日だった。
友人のセッティングした酒宴。
はくどうさんは様々な映画を見ておられるらしく、話しかたも上手な方だった。思慮深く、そして面白い人。
私の悪いクセ、かなり専門的な映画話でも、珍しく会話が成立する人。
はくどうさんが「トリュフォーが大学生の時に作った映画を持ってます。今度、家に見にきませんか?」
いま直ぐにでもお邪魔したいくらいの誘いだった。
そして、更に。
「津田さん、私がやっている東京ビデオフェスティバルに参加しませんか?」
「ビデオフェスティバル?」私は戸惑った。
私はCM監督として、そこそこの数の作品を作っている。
ドラマなども作る。
もともと映画を作る夢を持っていた。
仕事だから、映像作りに精通している。
だが、CM作りはあまり好きではない。
CMはワンクール(3ヶ月)すれば消えてしまう。
新しいCMに上書きされる脆弱なカルチャー。
放送が終われば、誰の記憶にも残らない。
消費される映像。
コマーシャルにも面白い時代はあったが。
でも近年は、クライアントの要求が多く、15秒に目いっぱいの商品情報を詰め込むコマーシャルばかり。
サントリーのBOSSシリーズみたいに商品を連呼しない広告が心地よい。
テレビをつけると大音量が攻撃を開始する。
追い付けないカット割りで目が回る。
放送するテレビ電波料、高額なタレント費。
企業は莫大なお金を注ぎ込むわけだから、あれも入れろ、これも入れろ、は仕方ない要求なのだが。
結果、誰も見ないCMだらけになってしまう。
面白さより、伝えたい事を片っ端から羅列するコマーシャルばかりになっていく。
眼を閉じ、うるさくて耳を塞ぎたくなるCM。
「結局、何のCMだった?」そんなのばかり。
誰もが眼を背ける。
そうだとしても、食べる為に仕事は選べない。
だからCMだけでなく、長編ドラマの演出仕事やポスターなどグラフィックの仕事まで手を広げていた。
焼鳥屋のテーブルで、小林はくどうさん。
「どうですか津田さん。学生やアマチュアが作る映像祭なんですよ。参加しませんか?」
NPO「東京ビデオフェスティバル」の理事に勧誘される。
「東京ビデオフェスティバル…素人や学生が作る映像祭…面白そうですね」と。私は同意する。
廃校の廊下を歩き、小さな教室の扉を開ける。
教室に居たのは、確かに、彼らだ。
『大林宣彦監督、それとジブリの高畑勲監督…なんだこれ?』
言葉につまる。
両監督も審査員をされていた。
昔は手塚治虫さんも審査員をされていたそうだ。
東京ビデオフェスティバルには、最長20分で、2〜300本もの作品が集まる。
それらの中から優秀作を選んでいく。
コロナ前だったし、みんなが大田区の廃校の、小さな教室に集まり、それぞれが自分の推す作品の、その理由などを話す。
忙しい方々なのに。
高畑さんは『かぐや姫の物語』を作りながら参加される。
大林さんも映画づくりに追われているはずなのに。
大林さんは、CM会社ですれ違ったことがあるくらい。
始めてお会いした高畑勲さん。
音楽や歴史、その博識ぶりや、とつとつと話される言葉に驚く。
宮崎駿と比べると地味な印象だが、私は大好きになる。
『火垂るの墓』の印象など、話させてもらった。
穏和な笑顔。
しかし、数年後の突然の死。
私は、はくどうさんとジブリで行われた高畑勲さんの葬儀にも参加した。
宮崎駿監督が、涙ながらに、嗚咽をおさえて高畑さんの事を話される。
そして久石譲さんの弔辞。
何か、担当された映画音楽での逸話だったが。
「あのシーン。あそこで音が半音上がりますよね。あれが良かった。あそこに驚いた。主人公の気分が、より伝わる」と高畑さんの言葉を紹介する。
さらに久石さん。
「私は、様々な監督たちと仕事をして来ましたが、半音の差に、そんな細かな事に気付く監督は高畑勲さんしか居ません。本当に驚く監督でした」
私もそう思う、高畑さんは天才的な作家だったと。
それに大林宣彦監督。
大林さんの話術は絶品、とても優れた話し手だった。
的確な論旨の組み立て、発する声の強弱、つい聞き耳を立ててしまう。
CMや映画監督で、クライアントやスタッフに話すことで培った技術なのだと思う。
ある年、大林監督は仕事の都合で、東京ビデオフェスティバルのイベント会場に参加出来ない事があった。
小林はくどうさんと共に、私は成城のご自宅に、イベントで流すビデオレターの撮影に伺った事がある。
「だいたい、何分くらい話せば良いですか?」と問われる。
「そうですね。5分くらいにしましょうか」と私。
ビデオが回る。
彼が気に入った作品を数本、何が良いのかを話される。
話し終わられ、ご自分で「カット」と言われた。
私は時計を見る。
ちょうど5分だったから、私は笑った。
これも話術。
15秒を作り慣れている元CM監督。
撮影後の余談。まだお元気だった大林さん。
「黒澤監督の羅生門、4Kデジタルの修復版を、この間、久しぶりに見たんですよ。そしたらね。主要登場人物、三船とか森雅之や、京マチ子。よく見たんですが、瞬き、していないんですよ。4Kだから分かったんですが、セリフ言いながら、瞬きをしない。これは驚いた」
「え? なぜだろう?」と私。
「黒澤明がそうしろと言わない限り、あり得ませんよ。あんな事。普通に眼は乾く、生理的に瞬きは起きるし、役者だって瞬きしますよ、普通」と大林さん。
私は考え込む。
「黒澤の演出ですか? あの映画、皆んなが嘘をつく話ですよね。三船も京マチ子も、みんな自分勝手な嘘をついて、真実は『藪の中』だから…。ちゃんと眼を閉じないで見ろ…嘘を見抜けって事ですかね?」
と私が言う。
私の言葉に、笑う大林監督。
「はは、なるほど…ね。いや、これは謎ですよ。でも面白いですね」
私は4Kデジタル羅生門を、見直してはいないけど驚く話だった。
大林さんは、本当に映画が好きなのだ。
そして現場がお好きなのだと思う。
彼の、近年の反戦映画など、長い作品が多い。
『そろそろ終わるか…』と思いながら見ていると、まだ終わらない。
これはたぶん、撮影の現場を終わらせたく無いのかも、と疑ってしまう。
私なども、CMは15秒なのに、つい多めに撮影してしまう。
念の為でもあるのだが。
使わないカットも撮影してしまうのは、現場が楽しいからだ。
大林さんも、そうに違いない。
はくどうさん、大林さん、そして高畑さん。
「東京ビデオフェスティバル」で、出会った人たち。
彼らは高齢なのに、懸命に何かを作っておられる。
それも精力的に。
noteに書いた「大林宣彦監督の謎の言葉はメアリーローズ」のことなども。
黒澤明やヒッチコックの秘密を、嬉しそうに語られた大林宣彦さん。
そして革新的なアニメ作品をたくさん残された高畑勲さん。
彼らを突き動かす情熱は、何なのだろう。
高畑さんが逝かれ、そして大林さんもガンと闘いながら映画を作られ、力尽きる。
私はふと、自身を振り返る。
『そう言えば…私には、代表作など無い』
『私は…何を残すのだろう。私が逝くと何が残るのか…』
ワンクールで消えてしまうCMで良い訳はない。
新しいCMが上書きされれば、私のCMなど誰の記憶にも残らない。
「本棚のテープに残る録画された数百本のCM作品は、やがて本棚の同じ位置でカビだらけになるか、私の棺と共に燃えて消えるだろう…」
『…何を残すのか』
このままで良いわけない。
自身へのジレンマ。そして未来。
映画の夢は叶わなくとも『小説なら…書けるかも』そう思い立つ。
『とにかく、前に進もう…』
長い文章はドラマ脚本の経験があるくらいだが。
始めてみた。
昔、描きなぐった漫画を「ガロ」に持ち込んだ事もある。
すると連載が始まった。
動けば、何かが変わる。
どこでも書けるようにiPadを購入。
やってみると、これがハマる。
シーンを頭で想定し、人物を置く。
ヒロインが喋り始める。
『そうだ、それでいい』
映像の作り方と同じだった。
15秒CMしか作って来なかった私が700ページ500ページの小説を書くなんて。
こんなに面白いとは、思ってもいなかった。
『ピノキオは死を夢みる』
舞台になる被災した福島原発の原子炉の図を、大きく描いてみる。
冷却水のダクト。そして燃料棒。
どういう道順なら放射能デブリに辿り着けるかを探る。
『ピノキオは鏡の国へ』の為にも。
ドイツや日本の歴史と、ある家族の歴史を、買い求めたロール紙を壁に貼り、長い線を2本引いて、ヒトラーが総統になった年を書き込む。
アインシュタインが来日した日を書き込む。
「大正時代、彼が43日間、日本に居たのか。なら、タイムマシンをつくれる」とアインシュタインを、物語に巻き込む。
『バックトゥー・ザ・フューチャー』の「ドク」の要素を入れたキャラ作り。
更にドイツ表現主義映画、フリッツ・ラングが『メトロポリス』を完成させた年を書き込む。
そしてラングの映画「M」を見直す。
ロール紙の線上で構想するストーリー。
「タイムマシンがあるなら、キューブリックに会いに行けるか」
ロンドンに飛ぶ。
キューブリックが彼の映画に残した謎を、美しきヒロインに究明させる。
ゲッベルス、ヒトラーに影響するル・ボンの「群集心理」(紹介本だが)読み漁る。
プロパガンダを、いまさらの再履修。
楽しかった。
CM作りより遥かに胸躍る。
なぜもっと早く気付かなかったのだろう。
大林さんや高畑さん、小林はくどうさんに出会った事から始まった、別の未来。
焼鳥屋ではくどうさんに誘われた日。
蒲田駅で降り、廃校まで行くバスを探した日。
あの廃校の、陽の射す古びた階段を上り、廊下の先の小さな教室のドア。
彼らがくれたギフト。
夏への扉を、開けた日。
たぶんあの時。
私の人生がリセットされた。
グッバイ。コマーシャル。
私は何処へ続く扉を開けたのだろうか。