【小説】『万華鏡ロジック』 一話



 帰り支度していると背後から声がした。
かおる、実はキミをモデルにした作品を造りたいと思っているんだ」
 短髪に筋肉質な体格。いつ汚れても良さそうな服を身に纏い、見るからに体育会系という言葉が似合う目の前の男、つじむらはそう切り出した。
 辻村は彫刻家である。
 そして出されたティーカップに注がれている紅茶を眺めながら、いま切り出された話にすぐ返答するより先に思考を巡られた。
 三ヶ月前。馨と彼が初めて会ったあの日、馨はとあるアートギャラリーに訪れていた。石膏像や絵画などが陳列されており、石膏と同じく白い壁と黒みの強いグレーのカーペットが敷かれた無駄がなく現実感のない空間で、彼女は展示されていた作品の一つに魅入られていたのだ。

 それは雪のように純白で無機質な石膏で造られており、ミロのヴィーナスを彷彿とさせるトルソーだった。最もミロのヴィーナスとは違い、頭はなくて特段とサイズが大きいわけでもない。けれども二十代半ばほどと見られる女性の体を再現していたそれに彫刻家の情熱と抑えきれない狂気を感じていた馨は引力としか言いようのない力で引き寄せられていた。
 世界と遮断されたような錯覚が起きるほど作品の前に佇んでいた私は背後に人の気配を感じた。振り返ると、辻村がいた。
 十代の若い来店者の物珍しさから好奇心で声をかけてきたのだろうが、辻村は私の顔を見ると表情には出ていなかったものの驚いているようだった。何故ならカオルは学生とはいえ数々の賞を受賞し、新進気鋭の天才画家として高く評価されており、その界隈では注目されていたからだ。……とは言っても画家や絵にそれほど興味と価値を置かない社会で取り立てて騒がれることもなく、馨自身その評価は自分の幼さ故の過大評価も含まれているのだろうと感じていた。それがどうであれ辻村は彼女に興味を惹かれているようだったが。
 その日から二人は時々、顔を合わせては他愛のない雑談をしたり、今日のように辻村のアトリエで会話を交えながらカオルは石膏のデッサンをさせてもらう事もあれば、彫刻を指導してもらうこともあった。
 そんな事を思いながらカオルは薄っすら微笑んで、紅茶を嚥下すると今しがた切り出された話に答えをだした。
「嬉しい誘いだけど、お断りします」
「そうか……わかった、むりな頼みをして済まない……」
「ところで先生、知っていますか? 近ごろ二十代の若い女性が刃物で切りつけられる事件が立て続けに起きていることを」
 辻村の指が僅かに痙攣した。器の中で紅茶が波紋をつくった。
「家の者が心配するといけないので、私はこれで失礼します」
「ああ、気をつけて……カオル、僕はおまえに感謝している。僕のつまらない話につき合ってくれたのはおまえくらいだった、ありがとう」
 私は「こちらこそ」と会釈してドアノブに手をかけた。扉から身体が半分でかかっていたその時、伝え忘れていた事を思い出した。
「そういえば、先生、紹介したい人がいるんです……」

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