見出し画像

【前編】星を結ぶ

(あらすじ) 

梨沙は自分の生き方について思い悩んでいた。40歳を目前としてその悩みは大きくなるばかりだ。
ある時、梨沙は勇気を出して「角打ち」へと足を踏み入れる。

そこに集う個性豊かな客たちと触れ合い、垣間見える一人ひとりの人生から大切なものに気づいていくのだった。


 都内のいくつかの介護施設を転々としてから、実家からほど近い施設に落ち着いたのは五年ほど前のことだった。この場所まで自転車で通うことができるのと、商店街に寄りやすい立地がいい。

 日勤の帰りは駅前の広場で缶ビールを飲むのが日課だ。プルタブを上げると、小気味良い音が弾けて疲れ切った体の重たさが引いていく。ごくごくと喉に流し、解放的な気分に一息ついた。背後では「七夕」の発車メロディーが鳴り響いている。

 地元阿佐ヶ谷は何かとイベントが多い街だ。まだ酒の味を知らなかった頃、この街があまり好きではなかった。七夕やジャズとイベントが多く、酒に酔った大人たちが顔を赤くして賑わう雰囲気が苦手だったのだ。
それよりも、のどかな田園風景やどこまでも広がる海を地元と呼べる方が羨ましかった。
 広場の中心に立つ大きな木を見上げた。

 でも、今は違う。

 酒飲みに寛容で陽気な一体感が漂うこの街の雰囲気も悪くはない。かつて自分が一本のビールが日々の糧になり、手放せなくなるなんて想像したこともなかったのに。そう思うとなんだか可笑しかった。
 
 自転車を引きながら歩いているうちに体の熱が消え、ひんやりとした水が手足を伝うように寒い。夜風に小さく体を震わせ、微かに滲んだ視界の先で、信号の灯りがアスファルトと混ざり合った。

 足元から視線を上げ、小さくため息を漏らした。

 居酒屋やバーに一人で入るのは気が引ける。それなら、あの広場で飲むのがいいのだろう。肩を落としていると、酒の瓶が大量に並べられた店先が浮かんだ。商店街のなかにある昔ながらの酒屋。

 そうか、あの角打ちなら―。

 トクトクと一升瓶から酒が注がれていく音は、川のせせらぎのようにいつまでも聞いていられる。溢れそうなカップを持って、零れないようゆっくりと奥にある角打ちへと向かった。賑やかな熱気に一瞬ためらったが、勇気を出して踏み出す。何人かで盛り上がっているなかに、一人客もそれなりにいた。

 瓶ビールを飲む一人客の隣に移動し、樽をテーブル代わりにして立ったまま酒を流す。普段は専らビールだが、久しぶりに味わう純米酒の爽快な辛さは舌をかすめ、喉を熱くした。
 
 騒がしい客たちの会話をBGMのように聞きながら、ふわふわした心地で熱気に溶け込むのは、不思議と安心感があった。ビールを流し込む隣の中年男性をちらりと見てから、次は同じものを頼もうと考えた。

 先日、愛媛の本部から応援できた介護士は村田さんという四十半ばの女性であった。ふっくらとした体格に丸い眼鏡をかけて、穏やかそうな雰囲気ながら口を開けばよく話す。愛媛に行ったことがないと言うと、ええところやけん遊びにこんかい、と勧められた。それなら都内も案内しますよ、と言うと目を輝かせた。

 夜勤明け帰宅すると、カーテンを閉め切った薄暗い部屋で母は朝食の支度をしていた。電気点けなよ、そう言いながら灯りを点ける。陰鬱とした暗がりと母の表情が灯りに包まれると無意識に胸を撫でおろしていた。

 母はここ最近、眩しい光を嫌がり、日中はいつもカーテンを閉め切っている。

 去年父が亡くなり、その喪失感で母はあまり笑わなくなった。活力が抜けた小さな背中を見るたびに虚しさを覚える。

 元々仕事一筋で、パワフルで優しかった母。わたしと弟の二人の子供を育てながら教員を定年まで勤め上げた。そんな母のことを娘として尊敬している。そして彼女もまた、そのことを女の矜持としていることは言葉の端々に感じ取れた。

 ぼんやりしているかと思えば、かつて仕事と子育てに奮闘した日々や、遠方にいる弟夫婦の子供のことをやたらと話すこともある。

 世間にありふれた、結婚や子供の話題に、棘のような小さな痛みがやがて空洞へと変わっていったのはいつだっただろう。結婚を諦めたときか、母の本性が顕著になったときからか、よく覚えていない。

 南瓜の煮物にごぼうのきんぴら、焼き魚などが並べられた食卓を囲い、テレビの音だけが居間に流れた。わたしはなんとなく、村田さんのことを話した。

「愛媛の本部から応援で来てくれた方がさ、明るくて話が合うんだよ。」
「へえ、年はいくつなの?」
「少し上だと思う、四十五歳くらいかな。」
「子供は?」
「・・・子供さんはいないみたい。」
「子供がいないならこっちに来られるわけね。」

 箸をつけた南瓜がぐしゃりと崩れ、小さくなったその欠片を口に入れる。母は無意識にため息を漏らしてから南瓜を口に運び、咀嚼した。歪んだように聞こえるその音がしばらく耳元から離れなかった―。

続く。

いいなと思ったら応援しよう!