正論と共感と、どっちが大事なんだろう?
人間という生き物は、悲しい性を持っているものでして、どうしても自分の考えにこだわりすぎてしまいます。しかも自分の考えに自信を持ちすぎて、時に周りの人たちを見下してしまったり、お相手の方を傷つけたりすることもあるのです。
改めて自分とお相手との関係性に気付かされる記事に出会いました。
五月美さんとは、以前からコメントを交わし合っていまして、今回がはじめてというわけではないのですが、今回の記事は特に心に響きました。
私は、本を読むことで自己の主体性を確立してきたわけですが、その成果としての文章表現も大好きでして、若い頃からよく文章をしたためておりました。
ですが、若い頃は自分の世界観に閉じこもりきっていて、他者の世界観をまったく無視していたような気がします。
たとえば、とある事件が発生したとしましょう。
自分はこれこれこういう風に考えますと一通り推理するわけですが、10人いれば当然10通りの考え方があるわけです。
Aさんから見ればこういう風に考えるし、Bさんからはこのように見えているわけです。はたまたCさんにはCさんの、DさんにはDさんの見解というものが当然にあるわけです。
それぞれの思惑には必ずバックボーンというものがその根底に存在します。
その人の生い立ちや育った環境、恋愛経験や仕事から得た体験談、あるいは書物やSNS等で得た知識によって、人の考え方というものはそれぞれ個性を帯びてきます。
noteというSNSのいいところは、虚飾を排して自分の本音を語ることができるところにあると思います。
他のSNSみたいに、フォワー数稼ぎにセレブリティを偽装することもないし、トレンド入りを意識した記事を投稿する必要もないのです。
それぞれ人たちの本音や雑感に触れ、自分の世界観と比較しながら、より自分という人間の器を大きくしていきたいものです。
もちろん、正論をつぶやくのも自由です。
そのこと自体を否定するつもりはありません。
しかし、自分の正論でもって他者の意見を踏みにじれば他者を傷つけることにもなりますし、また、他者が自己の正論をぶつけてくれば対立が生まれます。
そこから新しい何かが生まれてくれば、その議論に一定の価値を見い出せます。
けれども、お互いの意見が空回りして感情的なものに変質した場合には、それは不毛なものとなり、潰し合いの様相を帯びてくることにもなります。
コミュニケーションという言葉を前提にするならば、まずは、お相手の方の世界観を理解することではないでしょうか?
その上で、お相手に足りない部分があるのであれば補うこともできますし、あくまでもゴールとするのは“お相手の方の幸せ”なんですよね。
noteというSNSを通じて、ひとりでも多くの人に“幸せ”をお届けすることができるならば、それは私にとっての“幸せ”へと変貌していくのです。
改めていろいろなことに気づかせもらえました。
五月美さん、ありがとうございます😊