心の中に咲く薔薇の花
女性の心の中には薔薇の花が咲いています🌹
お花を見て「かわいい♥」と女性が心を躍らせるのは、心の中に咲く薔薇の花が共鳴しているからなのです。
よく、少女マンガの背景にも、薔薇の花が描かれてますが、あれも同様の現象です。
女性を愛するということは、この心の中に咲く一輪の薔薇の花をいとおしむということに他なりません。
今回は、3,600字を超す長編になりました。
お時間に余裕のない方は、3.レーナル夫人の罪悪感と6.最後にだけお読みくださっても、大意は伝わると思われます。
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1.フランス文学を愛していた女性との出会い
先日、ある本を読み返してみたんです。
最初に読んだのは、大学の頃でした。
大学に行った人とならわかると思いますが、必修科目で外国語があるんです。ほとんどの人が英語を選択する中で、フランス語を選択したのです。
なぜかって言うと、高校生の頃にフランス哲学にハマり、どうしても原文で味わいたくなったからです。
通信教育部の場合、単位の7割をレポート提出で習得するのですが、残りの3割はスクーリングといって、短期間の講義を受ける必要があるのです。
おしとやかな雰囲気を持つ彼女と知り合ったのは、そのフランス語の講義の時でした。
もともと、4年制大学で仏文学を専攻していた彼女からは、いろんな本を紹介してもらいました。
その中でももっともお気に入りだった本がこちらです。
“Le Rouge et le Noir” Stendhal
邦題「赤と黒」、スタンダールの代表作です。
やっぱりかの国の恋愛小説は、根本から違いますね。
キリスト教の持つ道徳心と人間が持つ本能とが、同時に発露されています。
恋愛の持つ情熱こそが、生きる原動力となっているわけです。
2.我が国における恋愛の考え方
我が国におきましても、国文学史上、源氏物語を最高峰とする向きがありますが、それもつい最近のことなんです。
もともと儒教や仏教を根本精神に持つ日本人にとって、長い間恋愛感情は軽蔑されるものでした。
くだんの源氏物語にしても、江戸時代に本居宣長が評価し、近代に入って、与謝野晶子や谷崎潤一郎が独自の翻訳を発表するまでは、いわゆる「女子供の読み物」として軽視される傾向にありました。
平安時代における和歌にも恋心を歌い上げた秀作がたくさんありますが、武士の世になり、これも廃れてきましたね。残念なことです。
儒仏の精神も大切だけれども、もう少し人間性の解放を叫びたいものです。
3.レーナル夫人の罪悪感
それはさておき、邦題「赤と黒」を読むたびにイメージしてしまうのが、冒頭で語りました「女性の心の中には薔薇の花が咲いている🌹」姿なのです。
前半部分におきまして、主人公であるジュリアン・ソレルは、貴族階級たるレーナル家に家庭教師として雇われます。ジュリアンとレーナル夫人との禁断の恋から物語がスタートします。
敬虔なるクリスチャンであるレーナル夫人にとって、夫を裏切る罪悪感は命を削る所業でした。
夫に対する罪の意識に苛まれながらも、家庭教師である以上、三者で対面することもあるわけです。にも関わらず、毅然とした貴族階級の夫人としての仮面をかぶり続けるのです。女性の恐ろしさですね😁
ところが、ある召使いの密告により、夫レーナル氏にも姦通の事実が伝わってしまうのです。この時の、レーナル氏の心理描写のリアルさが何とも言えず、胸に刺さります😖
今風にいう「サレ夫」の心境ですね。
げに恐ろしきはレーナル夫人。平然とした態度で愛人であるジュリアンを追放するわけです。陰では、ジュリアン相手に泣きじゃくるのですが。女性の持つ二面性が如実に表現されています。
4.フランス文学の根底にあるもの
物語ですので、後半部分の内容については差し控えますが、この物語に特徴的なのは、政治思想が日常会話の中に折り込まれていることです。
さすがはフランス革命の国!
自由主義だの階級闘争だの、普通の人たちが、普通に考えているんですね。
日本では到底考えられないことです。
これだけ政治(国会・官僚ともに)が劣化し、国家の危機が差し迫っているにも関わらず、のほほんと生活している日本人って一体何なんでしょうね。
このままだと、本当に外国勢力に飲み込まれてしまいそうです。
およそ欧州においては、隣国と地続きになっていることもあり、侵略と防衛に関しては、非常にピリピリしています。であるからこそ、哲学や政治思想が発展するのだと思われます。
島国に住む我々もまた、その日暮らし的な生き方をせず、100年先を見据えた環境作りを心掛けたいものです。
5.既婚者にとって、恋愛は排除すべき感情なのか?
a)キリスト教と性
「赤と黒」において、レーナル夫人が登場しますが、夫人というくらいですから、当然結婚していて、子供もいます。
しかも本人は、敬虔なるクリスチャンでありますので、罪の意識に苛まれるわけです。
なぜ、罪の意識が芽生えるのか。それは、キリスト教の教えによります。キリスト教においては、一夫一妻制を根本とし、家庭を大事にしなさい、と説いております。また、聖書では、性欲を悪とし、生殖を伴わない性行為や自慰行為すら禁止されていますので、徹底されているわけです。
b)人間の復権
それに対して、政治的かつ宗教的専制を拒絶し、人間の尊厳を神聖視するという思想が生まれました。
世界史でおなじみの文芸復興です。
教科書には、14世紀にイタリアで発祥したとありますが、最初にこの語を用いたのは、フランスの歴史学者ジュール・ミシュレです。19世紀のことです。
ここでもフランスが出てきました😄
世界史に通じている方ならご存知かと思われますが、簡単に説明すれば、キリスト教文化が欧州を席巻する以前、ギリシャ・初期ローマの文化を中世に復活させようとした運動を指します。
文芸復興の目的は、キリスト教道徳に雁字搦めになった人間観から脱却し、人間本来の姿を解放しようとするものです。
ですので、この「赤と黒」におきましても、キリスト教道徳と人間性との葛藤が描かれています。
道徳や世間体は、どうであれ、自分が好きになった人のために生きようとするレーナル夫人。
そこには、封建社会から脱却せんとする近代人の姿が投影されているのです。
c)形式化した結婚制度に潜む限界
社会的地位もあり、財力もあるレーナル氏。
彼と結婚できた彼女は一般的に言えば幸せな人生を送っているのかもしれません。
しかし、二人の間には、愛情がありませんでした。
そこにあるのは、虚栄に満ちた張りぼての貴族的生活だったのです。
一方、ジュリアンは身分も低く、財産もなく、十歳も年下の男の子。しかし、彼女のことを愛してくれます。
彼女の子供からも慕われるジュリアンに、いつしか、「彼がこの子の父親だったなら…」
という空想に浸るようになるのです。
確かに道徳的には許されない行為です。
しかし、現代人の私たちの目から見た場合、彼女は本当に断罪されるべき存在なのでしょうか?
昨今、有名人による醜聞が話題に上がりますが、もしかしたら彼ら、彼女たちも虚栄に満ちた世界に住んでいるのかもしれませんね。
6.最後に
これは物語ですので、あまりあらすじを述べるべきではないのですが、その後の展開を簡単に説明します。
家庭教師を解任されたジュリアンは、その後別の貴族の娘と恋仲になり、結婚の約束までするのですが、そこにレーナル夫人の陰がちらほらします。
いわゆる三角関係が成立するわけです。
わたしは、レーナル夫人の姿に一輪の薔薇の花🌹をイメージしてしまいます。
女性の美しさはよく薔薇の花🌹に例えられますが、しかし、その茎の部分には、痛々しいトゲが何個も突起しています。
そのトゲは、時に自分自身の心も傷つけますし、お相手の心を傷つけることもあります。場合によっては、それ以外の人たちをも巻き込むことだってあるのです。
女性は常に自身の美しさを追求し続ける生き物です。
ですが、時にその美しさが、周囲の人たちに不幸を与えかねる事態が発生することもあり得るということです。
そう考えてみるならば、女性にはある程度の貞操観念が必要になってくるのかもしれませんね。
あなたの美しさは誰のために存在するのでしょうか?
ここまでお読みくださった方には心から感謝いたします。