2年だなんて、ほとんど永遠ね。【第1話】
名前さえ知らない木
1978年。6月。15才。
学校帰りにかごめと行った海。
コンクリートの堤防にふたりで腰掛け、随分と長いこと、海を眺めている。小さな頃からいつも見ている別府湾。この大きな湾となっている海を越えた先の山に、ぼくが住む小さな町がある。母が晩御飯の準備を始めている時間だ。背を向けている先にも山があり、それをふたつ越えた小さな町に、かごめが住む家がある。こんな近くに座っているぼくらは、やがて随分と離れたそれぞれの場所へ帰らないといけない。どうしてだろう。
かごめの横顔を眺める。海へ向けて下ろした足を包んでいる制服のスカートは、柔らかい風に包まれて揺れている。
「とても穏やかね、今日は」
そう言ったかごめは、そのままの視線で
「もう、どこにも帰りたくない」
と、小さな声でつぶやく。
「もう、どこにも帰りたくないの。今日もまた、もう少ししたら振り向いて、朝来た道を帰る。いやなの。もう、イヤなの」
かごめの指は、潮風にさらされて表面が粗くなっているコンクリートに、食い込んでいる。僕は両手でかごめの指をそっとコンクリートからはがし、ゆっくりと包む。
「どこかに行きたい訳じゃないの。行きたい場所なんて、どこにもないもの。私はどこに行きたいの?どこに行けばいいの?」
かごめの指から視線を上げると、かごめはびっくりするくらいまっすぐに僕を見ている。
「どうしてだろう」
僕の言葉の続きを促すように、かごめは目を少し見開く。
「どうして今日も、もと来た道をたどって、お互いの家に帰らないといけないんだろう、って、僕も思ってたんだ」
かごめは、少し身体を僕に向け直す。
「うまく話せないんだけど」
僕は出来るだけゆっくりと、できるだけ柔らかく、両腕でかごめを包む。なんて柔らかいんだ。15才の僕にはまだ抱きしめる事は出来なくて、かごめを壊さないように、傷つけないように、それだけを願って包む事しか出来ない。今だけ少し大人になれればいいのに。世の中をグシャグシャにしちゃってる大人達にはいつも嫌悪しかないけど、けど、今だけ少し大人になれたら、もっと上手に、正しく、かごめを抱けるのかもしれない。悔しい。「好き」というひと言さえ、いまだに言えないままだ。
「タツヤ」
「ん」
「来週、タツヤの誕生日が来るね」
「ようやく追いつくよ、お姉さん」
「もう!何年たっても若干年上のまま、っていうのが引っかかるのよね」
「そう言われてもねえ」
「なんとかしてよ」
「なんとか、ねえ」
「いつもはぐらかすばかりじゃない」
「そんな事ないよ。僕はいつも誠心誠意、かごめの事を考えてるよ」
「その言葉信じるよ」
ぐっと僕の目をのぞき込むかごめ。
「駆け落ちしよ、タツヤ」
「駆け落ちって、さすがになかなかもう聞かなくなった言葉じゃない?」
「もう、すぐはぐらかす」
「いや、そんなつもりはないけど、ほんとに」
「じゃあ、どんなつもりなの?言っとくけど、私は本気よ。タツヤ風に言えば、真剣よ」
今度は僕がかごめの目の奥を見る。パルコで2万円のワンピースを買うって決めた時と同じ目だ。本気だ。真剣、しんけんだ。エスカレータで、何度も上がったり、下がったりして、公衆電話で家に電話したけど、お母さんは仕事からまだ帰ってないようで、電話を切るなり、もう、どうしよう、って、またエスカレータで売り場へ上がってた。今回は事がことなだけに、慎重に答えないといけない、という事は、僕でもわかる。でも、なんて答えればいいんだ。もう少し僕が大人だったら、もう少しちゃんと青春映画を観てれば、もう少し世界文学全集を読んどけば、こんな時に彼女へ伝える言葉のヒントがあったかも。『お前がいつか出会う災いは、お前がおろそかにしてきた時間の報いだ』と言ったのは、ナポレオンだったっけ。いやいや、何考えてるんだオレは。最優先事項は、動揺をさとられない声で、かごめを失望させない返事だ。でも、僕がかごめの目を見てるって事は、かごめは僕の目を見てるって事で、つまりうろたえてる僕のこころは、きっとバレてるって事だ。つまり、正直に、ありのままに、伝えるしかない。
「わかった。駆け落ちしよう」
「もう一度言うけど、私は本気よ。しんけんよ」
「わかってる」
「ホントにいいのね?」
「もちろんだよ」
かごめ、沈黙。表情に変化なし。顔色伺って言葉をつなぐのもカッコ悪い。
「順を追おう」
「順って。私を言いくるめようとしてない?」
「いいかい、かごめ。駆け落ちって、つまり、恋する二人の逃避行だよ」
「わかってるわよ」
「うちの隣町の娘さんが結婚を反対されて、駆け落ちした」
「えっ、いつ?ホントの話?」
「つい最近のホントの話。うちは田舎だから、特にこう言う話はすぐに広まる。近所の小学生だって、先週のドリフターズのコントくらい、この話を知ってる」
「なんかよくわかんない例えだけど、で、どうなったの?」
「まだ見つかっていない」
「で、どうなるの?」
「夕飯とりながらのうちの両親の見立てによれば、娘さんからそのうち電話がかかってきて、親御さんが『あなたたちの強い気持ちはよくわかった。頼むから帰って来て』と、折れるしかないだろう、って」
「そうか。そうよね。ぜひ、一緒になって欲しいわ。若者はそうやって勝ち取るしかないのよ。自分の未来を」
「でも、生活力もまだ充分にないふたりが、この先家庭をつくってやっていけるのか。結局別れる事になるんじゃないか、って、多くの大人たちは思ってる」
「大人って、いつもそう言うよね」
「それでだ、かごめ」
「なに?」
「順を追おう」
「だからなんの?」
「かごめ、好きだよ」
「えっ」
「佐藤かごめさん。僕はあなたの事がとても好きです。高校に入って同じクラスで君を見た時から気になってて、最初の席替えで隣りになった時から、君の事が好きだと自分でもわかるようになっていました」
「どうしたのよ急に」
「隣りの席の君を文芸部に誘ったのも、もっと君と話をしたかったから。少しでも近づきたかったからです。だって、隣り同士の席なんて、1カ月限定だから」
「タツヤ」
「君は、本ならチョコレート戦争が好きで、マンガだと綿の国星が大のお気に入りで、ピンク・フロイドを最近聴き始めてて、コーヒーは苦手でココアが好き。僕とは違う事、結構あるけど、けど、君の事を知れば知るほど、君の事がどんどん好きになる」
「もうっ」
「お互い電車通学だから駅までの時間も一緒に過ごせて、僕は幸せです」
「もう。私もよ」
「だけど、まだちゃんと自分の気持ちを伝えていませんでした」
「ん」
「だからもう一度言います。昨日まで、言葉にしないままでいたけど、佐藤かごめさん。僕はあなたの事がとても好きです」
「ありがとう。とってもうれしい。佐伯タツヤくん、私もあなたの事が好きよ。他の誰よりも」
「僕はちゃんと、伝えられたかな?」
「うん。ちゃんと伝わった。うけとめたよ」
「よかった。そして、誰よりも大事なかごめが、僕と駆け落ちしたいという」
「うん、そうよ。駆け落ち」
「ねえ、どうして駆け落ちなのか、話を聞きたいけど、」
「けど?」
「なぜだか、僕はわかったんだ。僕も君と駆け落ちしたいんだって」
「本当に?」
「そうだよ。こうやって話しながら、自分の気持ちに気付いたのかもしれない。もちろんかごめの考えてる事も、ちゃんと聞きたいと思ってる」
かごめがじっと僕を見る。
タツヤ、なんかいつもと違う。急に大人びたみたい。
防波堤に大きな波が打ち寄せる。沖をフェリーが通った。さっきまでの動揺は、波と一緒に砕けてどっかに行った。ふたりが真ん中にいるこの景色を、忘れずにいたい。
タツヤ、キスしてくれないかな。
かごめとキスしたい。でも、順を追わなければ。
「ちゃんと気持ちを打ち明けた。で、次だ。僕は君とずっと一緒にいたい。かごめはどうですか?」
「私もずっとこのまま一緒にいたい。帰りたくない」
「僕も帰りたくない。お互い同じ気持ちなら、ずっと一緒にいるために、どうすればいいんだろう」
「どうすればって、」
「一緒にいられるように結婚したい、って、親に言うためには、僕が18になるまであと2年と1週間待たないといけない」
「2年だなんて、ほとんど永遠ね。私、年老いて死んじゃってる」
「死ぬのはだめだ。まだキスもしていない」
「じゃあ、逃避行ね」
「そう、逃避行。駆け落ちだ。だってこのままだと僕ら年老いて死んじゃうんだから、仕方ない。他に選びようがない」
「他に選べない。唯一なのね」
「そうだよかごめ。これが僕らの順を追った結論です」
かごめはずっと僕を見てる。
「タツヤ、大好き」
僕は両手で軽くかごめの顔を包み、ゆっくりとくちびるを合わせる。潮風に吹かれていたふたりのくちびるは、少しカサついていたけれど、僕らにとって忘れられない、初めてのキスとなった。もう一度、防波堤に大きな波が打ちつけた。
しばらくかごめを両腕で包んでいた僕は
「僕ばかり話しちゃったけど、なぜかごめは駆け落ちしよう、と、思ったの?」
と、問いかける。
僕の鎖骨あたりに横顔を寄せているかごめが、そのまま話し始める。
「あのね、タツヤ。タツヤは毎日、別府湾沿いに走る電車に乗って、高校に通ってるよね。私も別府にいる叔母の家に行く時に、何度かその電車にのったことがあるの。窓から見える風景、トンネルを越える度にどんどん変わるよね。湾を照らす日の光も変わるし、その向こうの山、海岸に沿って走る国道、別大国道。その国道を走る車。次々に変わって飽きないの。むしろわくわくして、ドキドキするの。でも、でもね、私が毎日乗っている列車は、内陸へ向かって走るの。列車の右も左も、名前さえ知らない木がどこまでも続いてるの。列車すれすれに。ほんとよ。おとぎの国への道みたい、って、言う人もいるけど、もう私、息が止まりそうになるの。途中駅に停まって、ようやく呼吸出来るくらい。そして1分もすればまた走り出す。繰り返し続く、名前さえ知らない木の間から、たまに遠くの畑とか、山とか、川とか、橋とか、ちらって見えて、ああっ、どこかにココとは違う世界があるかもしれない、と、思って、思えて、それが支えになるんだけど、ほんとは声をあげて泣いてるのよ。毎日毎日。周りを見て自分の好きな事を探すことも許されず。タツヤ、私、怖いの。もう、このまま大人になっちゃいそうで。今授業でやってる枕草子は、素晴らしい文学なのかもしれない。世界史には人類の叡智が詰まっているんだと思う。数学だって、人をとらえて離さない魅力と真理があるはずよ。でも、私が知りたいのは、どうして一緒にいたい人といられず、どうして乗りたくない列車に乗らないといけないのか、なの。それだけなのよ、今知りたいのは。誰も私の事を、見てくれようともしない、聞いてくれもしない。もう子どもじゃないんだから聞き分けのない事は言わず、社会の一員になるために備えろって事ばかり、繰り返す。子どもじゃないなら、自分で決めます、って言うと、大人じゃないのに生意気言うな、って、言われる。家でも、学校でも、どこでも。私は子ども?大人?高校を卒業さえすれば、何もかもはっきりと分かるようになるというの?ほんとに好きにさせてくれるっていうの?自分が乗る列車を自由に選べるの?」
フェリーの汽笛が聞こえてくる。5時45分だ。僕らはいつもこの汽笛の合図で駅に向かう。かごめは、この子は、こんな事をずっと抱えてたんだ。僕はといえば毎晩、映画専門誌をパラパラとめくり、次に見る映画を考えたり、本を読んだり、ラジオをイヤホンで聞きながらシティ情報誌をめくり、将来買う車は絶対これだな、と思い、そして眠りにつくだけ。かごめの気持ちに気づけなかった自分に愕然とする。一人前にキスはしたけど、あまりにも自分が子どもすぎて不甲斐ない。一気に自信を失った僕は居場所を確かめるかのように、かごめに回した腕に力を入れる。かごめの髪に顔を埋める。初めてかぐ香り。かごめを包み込みながら、抱かれているのは僕だと知る。
つづく。
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